見えざる糸

 ガイダンスの後、教職の履修相談に行ってきたときの話。大学卒業とともに中・高の理科の免許が貰えたのだけども、「社会科の免許も取れたら取っちゃえ」なんてことをこっそり腹案として考えていたので、その相談に。道徳教育論でお世話になったO島先生がいたので、話をしてきたのですが・・・
 教育職員免許法の別表4から教科に関する科目20単位+教科教育法でいけると思っていたのだけど、「少なくても28単位取らないとだめだよ*1」とか「何のために2科目取るの?」とか言われて、散々でした。理科の免許さえ、教員になるのが目的じゃなくて(まぁ、将来の可能性として残しておくという意味合いもあるけど)、免許を取ることがどちらかと言えば目的だったし訳で。更には「大学院の授業も大変なんじゃないの?」と心配してくれたけど、そんなことは知らない。だって既にやる気をなくしてるし、今日だって大学に行きながら研究室に顔すら出さずに帰って来たし、すっぱり辞めても良いかなとすら思ってる次第。
 今期は大学院の授業を取りつつ、司書教諭・ロシア語・社会科免許・文化人類学にも浮気しようと企んでいたけど、教員になるつもりもなきゃ、ロシアに行くこともないだろうし、社会の仕組みを考えたところで何も変わらないし、結局すべてが水の泡なのかもね。「色んなことに寄り道できるのが大学生活のメリット」なのかもしれませんが。もっとも本業が倒産寸前で副業に奔走している今の状況を鑑みると、この先2年も研究室に居たところで大したものも得られないし、それこそ時間とお金の浪費のようにしか思えませんが。

 さて、「何のために存在しているのか」なんて崇高な問いを解くつもりもないけど、おそらく何らかの存在理由があるから現実に存在していると思うのです。イメージとしては見えない糸によって現世に吊つされている感じ。さらに糸の1本1本が存在意義だと思えば良いかしら。
 研究室に行けなくなって自分のあるべき姿を模索してるのも、それはそれで1本の糸なのかもね。結局は誰か(神様かもしれないし、お稲荷様かもしれない)の意のままに操られているのかもしれないけれど、従順に操られるのも良し、抗うのも良し。無数の見えざる糸が僕という存在を現世に留めているわけで。見えざる糸を切ったらどうなるのか、そんなことを考えながら駅に向かってとぼとぼ歩いていたのです。
 電車がホームに滑り込む風を感じながら、冗談交じりに「存在意義がはっきりしないまま生きててもしょうがないし、いっそ現世とサヨナラでもしてみるか」と思っていたのわけですが、こんな思考こそが僕を現世に繋ぎとめているんだから皮肉なものです。だって、冗談じゃなくて真剣にそう思ったのなら、何かの拍子に、ね。
 絡まった見えざる糸は解いて元通りにするべきなのか、それとも鋏で切るべきなのか。糸が切れたらどこへ堕ちるのか。こんだけつらつらと書き連ねて僕が言いたかったことは、「病みの周期がやって来た!*2」。ただそれだけなのです(´・ω・`)

*1:帰宅後、ネットで調べたら20単位で取れると書いてあるページがごろごろヒットしたけど。あのヤロー、ホラ吹きやがって(軽い冗談)

*2:まぁ、ヘタレなので何かしでかすつもりもないし、心配には及びません