神様の与えし3つの選択肢

 全ては自分の弱さが招いた結果なのです。

 時間的な猶予を得て、いろいろな人と話をしたり、思考を巡らせてみたり、哲学の本を読んてみたり。だけども、それらによって今の状況が劇的に変わることなど無いと、ちゃんと分かっているんだよね。なぜならば、自分が置かれている今の状況を変えることを望みながら、一方で今の歪んだ日常をどこか愛しく思ってるから。変化を求めて行動しているけども、あくまでそれは現状を維持出来る範囲でのこと。つくづく自分は狡猾な人間だと思います。

 悩んでいる僕に、神様は3つの選択肢を僕に提示しました。

 研究室が戻れない(戻らない)理由はいくつかあるけども。研究テーマに興味がないとか、人間関係がしっくりこないとか、付き合いを避けては通れない部署にまぁ最低な人間がいるとか*1、いくらでも理由はあるわけで。ただ、出来る範囲でやってみようと思ってやってはみたものの、研究によって生じるストレスが自分の許容範囲を越えちゃって今に至るわけですが。「好きなことでもないし、最低限の事だけやっておけばいいか」とは思うんだけど、周りは精力的に取り組んでるから温度差みたいなものを感じてしまって、それが一番嫌。周りは優しいから何にも言わないけども、これじゃまるで自分が落ちこぼれのようで(まぁ、実際そうなんだけどさ)。学部時代に頑張りとそれに見合った結果の成れの果てがこれだったのかと思うと、悲しさを通り越してむしろ呆れて笑うほかありません。そんな思いをしてまで研究しても得るものなんて大してないだろうし、何か自分に合ったことがきっとあるのではないかと、密かに思う訳で。
 火曜日に、僕の現状を心配してくれたとある先生と話す機会があって、今の状況を分かってくれた上で「厳しい話になるかもしれないけども・・・」と前置きがあって、「社会は厳しい所だよ。こんなことで辛いと思ってたら、やっていけないよ。だからこそ、君にとってこれは乗り越えなくちゃいけない壁なんじゃないかな。」と。嬉しいことに「やめるのはもったいない気がするけどな。もし研究室を変えたいのならば、僕のとこに受け入れてあげるよ」とも言われたのだけども、研究に対してこれほどまでに負の印象を持っている僕が、いかなるテーマであれ研究に戻るということは、‘精神的な死’に他ならないと(今の段階では)思うのです。これが1つ目の選択肢。

 「研究から離れて、自分と向き合ってみるのが良いのではないか?」と言う人も居ます。これに対しては初めから否定的に感じていました。なぜならば、いたずらに時間だけ過ぎるだけで問題の先送りにしかならないのではないかと、僕は思うから。それでも、甘い誘惑はじわりじわりと僕をその気にさせるのです。半年くらい気ままに過ごしてみるのも良くないかなと、軽い気持ちで休学してみて、それでもだめだったら辞めればいいやとなんとなく考えていたのですが、その先生曰く「休学や退学は就職の時に大きな欠点になるからやめておいた方がいい」とのこと。人より秀でた才能の1つでもあれば、就職活動を前提とした雇用制度に従うこともないのでしょうが、何も才能が無い自分には関係のない話。いずれは生きていくために働かなければならないのは自明のことですし、それを考えると‘社会的な死’をもたらす2つ目の選択肢である休学や退学は現実的ではないと思うのです。
 いろいろな人と話をすると休学を勧める人もいれば、逆にそれを勧めない人もいるわけで。もちろん、自分のことを思って言ってくれている(と思う)のだけども、「結局は他人事なんだよね。休学を勧めたことで生まれる責任はその人が追うわけじゃないからね。」という先生の言葉を聞いて、最終的に決めるのは自分とはいえ、優しい欺瞞にあふれているこの世界で他人を信用しない方が良いのではないかと、少し疑心暗鬼。

 「漠然と生きているよりも、目的を持って死ぬことの方が崇高である」というのが僕の死生観。今、自分が置かれている状況は、今までの選択1つ1つが積み重ねに起因しているのではないかと思うのです。もちろんそれだけじゃなくて、世界の不条理や見えざる力の類も関与しているはずですが。ここで、選択の基準はまさしく自分自身であって、自分自身が力を持たなかったからこそ全てではないのかと思うようになりました。同じ環境で、他人が出来ていることが自分だけ出来ない。それはやはり自分が弱いことである他ありません。状況を打ち破るにも、自分を殺めることにも強さが必要です。僕は弱い人間だから、こうして中途半端にこの世界に留まっているのではないだろうかと思えてなりません。生きるということは幸せになることの前提条件ではありますが、生きること自体は果たして幸せなことでしょうか? 現に生きることにほとほと疲れ、死を渇望している自分がいます。幸せになるためにこの世界と戦うための勇気、幸せになるために死の恐怖*2に打ち勝つための勇気。手段は違えど同じ目的を果たすために振り絞ったこの2つ勇気に対して、善悪などつけられることはきっと出来ないでしょう。そして、‘物理的な死’こそが3つ目の選択肢。
‘精神的な死’や‘社会的な死’は、立ち上がることが不可能ではないから一時的なものかもしれない。だからこそ、‘物理的な死’を選ぶべきではないという人も居るだろうけども、‘物理的な死’は不可逆的なものだからこそ悠久の幸せを手に入れられるのです。

 改めて、僕はこの世界で生きにくい人間なのだと思います。形は違えど‘死’は免れないのですから。かつて「研究室に戻るか、それとも死ぬか」で悩んでいることを打ち明けると極端すぎると言われたものですが、‘社会的な死’が現実的ではない以上、この考えは正しかったのではないかと思えてなりません。
 どの選択肢を選ぶか、僕に与えられた考える時間は長くても3か月*3。来る期限までに、何からの選択肢を神様に伝えなければと思う、今日この頃です。

*1:同期からの愚痴を聞いてるだけなのでそれだけで決めつけるのは良くないけど、そんなこと聞いたらそいつと接点は持ちたくないよね

*2:どれほど死を望んでいても、生きている以上本能的に恐怖を抱くのは当然のことです

*3:復帰するにしても、休むにしても、辞めるにしても、何らかの手続きは9月頃にはしないといけないですし。死ぬのはいつでもできますが、だらだらと生きて年を越すのも忍びないしね