狐のかんざし

 どれほど死を崇めれば、死に対する恐怖は無くなるのだろうか。「やはり生きることに意味などないよなぁ」とそんなことばかり考えている。週末になると、いつも思考がそこに行きつくのだ。平日はいろいろとやらなきゃいけないこと*1に追われてそこまで酷い状態にはならないのだけど。
 そろそろ戻らないと取り返しがつかないような気もしてきて、来週ぐらいからかなとは考えているのだけど、やっぱり嫌なものは嫌なんだ。どうかしちゃって、アセトンをぶちまけ、ゆらゆらと歪む空気と焔の中で敦盛を歌うのもまた一興。歌詞は知らないが。

 「生きる意味」も「人生の目的」も「本当の幸せになること」だとウィトゲンシュタインは言う。目指すべきことは分かっているのにも関わらず、問題を難解しているのは「幸せ」とは一体何なのか、現時点では分かり得ないからである。
 幸せとはお金や身分のようなモノではなくそのような‘状態’であって、それがどんな時であったかというのは‘生の終焉’、すなわち死を目前にして初めて分かるものなのだとボクは考える。時間と共に‘状態’は常に変化している。だから、それが大きく揺れ動く‘生の最中’に存在している限りは人生の山と谷を俯瞰するという行為は無意味なのであって、「何が幸せであるか?」という問いに答えなど出ないのである。

 再三ここでも言っているような気もするけど、ボクの思い描く本当の幸せとは、悩みや不安からの解放なのだ。それは此岸では実現しえない。此岸が此岸たる所以は、そういったものが遍く存在しているからなのだ。目指すべきは可憐な朱い花が咲き誇る、かの世界なのだ。

 そこまで辿り着いているのに、どうしてボクは死ぬことが出来ないのだろうか? 

*1:研究室(という名前の煉獄)に行けなくても、忙しいのです