happy blue sky trip


 
 絶賛ヘビロテ中の「happy blue sky trip」であります。この曲を聞きながら乗り込んだ帰りの電車。車窓には見える雲一つない快晴の空。ボクの心がちくちくと痛んだんだ。某ゲームのED曲なのでおそらくゲームのストーリーを反映した歌詞になっていると思うのだけど、悪いものに憑かれたボクはどうも都合の良いように解釈してしまいます。「セカイの果ての先」に、果たして本当の幸せはあるのでしょうか? 片道っきりの幸せな青空の旅、せっかくならば一秒でも長く身を委ねてみたい。バカと煙は高いところが好きと申しますが、その理由が少し分かった気がするよ。

 足がすくんで動けないから苦しいのであって、今、一番しなきゃいけないことはその状況から脱すること。だから、飛び込む先がどこであるかは問題じゃない。少なくとも飛び込む勇気と自分の意思で行動に移すことが出来たなら、自分自身にハナマルをつけてあげよう。たとえそれが現実社会じゃなくて、青空であってもね。

 じゃあ、何で飛び込む勇気が持てないのだろう。結局のところ、存在するということはとても不確実なことであると、ボクは思った。そのことがはっきり幸か不幸かはっきしとしていれば、「どちらに飛び込もうか?」と迷うこともないだろう。不確実であるがゆえに、屋上で風に吹かれながら、錆びた手すりを掴みながら考え込んでいる状態にボクはいる。存在することの意味を、果たしてボクは知ることが出来るのだろうか。

 デカルトさんは「この世に疑っている自分が存在していることだけは、疑うことが出来ない」ことを突き止めた。また、「悩んだ時は最善だと思う決断をすること。そうすれば、必ずどこかに辿り着くから」と言っているね。一歩踏み出す事が出来ず、その場でただ立ち止まってるだけという愚行を犯してるボク。
デカルトさんの哲学の第一原理もボクの歪んだ思考を通すと、「今、自分を取り巻いている様々な問題すべては自分の存在に起因するのだから、唯一にして確実に諸問題を解決できる方法は自分という存在の消失である」ということになる。これが、ボクがそのような行為を正当化する裏付け。それでも、依然としてボクは心の揺らぎを覚えるわけで。

 先日、しこたま薬を飲めば楽になれるのかと思って、ネットで調べてみたら、どうも楽になれないどころか胃洗浄がものすごく辛いらしい。夏に胃カメラを飲んで、それはそれは辛い思いをした。気分は触手に犯される魔法少女。ボクは「もう2度とごめんだよ」と涙ながらに思ったものだ。
 「自分の思う瞬間と方法で幕引きを図れる」なんて幸せなことだと思うけど、やっぱり怖いわけで。行為を裏付ける論理ではなく、「存在することは不確実だと思ってたけど、やっぱり違うのかも……」という揺らぎを感じることが問題なのだ。そう思ったボクは、「それなりに薬を飲んでふらふらしてきたら、屋上へ赴く」ことが現時点での最良の方法じゃないかと考えた。要は、揺らぎを感じなければ良いのだ。お酒でもいいけど、あれはトイレは近くなるし、二日酔いをこじらせると生き地獄だし、使い勝手が今一つ。風に当たりながら、ふと「いっぺん、空に飛びこんでみるかー」と軽い気持ちが芽生えたならば、あとは衝動に任せて行為に及ぶだけ。問題は、薬を飲むと上機嫌になるので、普段は心の中で虐げられている「力への意思」がぐんぐんと息を吹き返すのです。そういう行為を考えてるボクとしては都合がすごぶる悪い。はて、困ったものです。

 今日の夕方も、いろいろと考え込んでいたら、眩暈と頭痛が襲ってきた。いいぞ、もっとやれ。結局、一番いいのは、恐怖が霞んでしまうほどの「今置かれている状況に耐え難い苦痛を感じること」なんだろうな。幸か不幸か、その域にはまだ達していないみたい。ぬるま湯体質、ばんざい∩(・ω・)∩ 今の状況から脱することが出来れば、生きることも、死ぬことも、幸せなのだとボクは疑ってやまない。