121230

 明日は国展出向で忙しそうなので、今日のうちに。

 布団の中で、いろいろと考えを巡らせてみたけども、諸悪の根源はこのボクが確実に存在するということであって、それゆえにボクを取り巻く不確実なものと対峙しなきゃいけないということ。だから、自分を確実なものたらしめる‘軸’のようなもの*1を自分の中に有していなければならないのだろうけど、ボクには生憎それが弱いようで。

 この世界は全てが不確実だ。耄碌ジジイと話したところで、ボクの気持ちや提案は伝わることがなかった。ボクと他人を結びつける唯一の道具である言葉さえ、確実なものじゃない。そんな不確実な言葉で溢れた世界は、思惑と裏切りで埋め尽くされた世界*2は、果たして飛び込むのに値するだろうか?

 言葉の源泉ともいえるもの。それはボクの経験に基づく思考なのだろう。唯一無二のボクという存在を形作っているのは、他ならぬ「選択の積み重ね」だ。その結果、「本当の幸せはこの存在の消滅によってもたらされる」という解が導かれたのだから、ボクにとってはそれが正しいのだ。

 もちろん、こんな話は誰にも受け入れられないし、悲観的になり過ぎだとも言われる。でもね、感覚なんてものは絶対的じゃない以上、当てにならない。例えば、「国土を守るためには、それを脅かす(もしくは不法に占拠している)他国には断固たる姿勢で臨む」という至極真っ当な主張*3は、マスコミに言わせれば‘極めて右に片寄っている’そうだ。そりゃそうだろう、マスコミや侵略する側の人間は‘左の端っこ’にいるのだから、そこから見ればなんだって右に見えてしまう。そうそう、先日の衆院選小選挙区で落選し、比例でギリギリ当選したしぶとい元総理大臣は、乗った選挙カーが交差点を右折しようとして事故を起こして頭を10針縫う怪我を負っていましたが。「思想が左のくせに、慣れないことするから」というネットのツッコミ、その通りだと思いました。

 こほん、話が逸れてしまった。主義や主張に絶対的な正しさなんて存在しないのだ。そこにあるのは(都合が)良い、悪いだけ。どんな選択をしたところで、確実な答えが用意されているわけでもなく、恐れと不安に包まれながら、ふるふると生きてゆくことはものすごく都合が悪いのですね、ボクにとって。その中で、ボクが唯一確実だと思えることは、「ボクが死ぬこと」、それ1つだけ。確実に存在している不確実な実存*4は、「存在の消滅」という出来事を迎えることで初めて確実な実存となる。だから、自らを殺めるという行為は、言うなれば儀式のようなもので、実に目出度いことなのだとボクは考えている。そりゃあ、赤飯をこしらえるくらいね。

 そうは言っていても、病院やらカウンセリングに通っているのは、「死ぬのは嫌だ、やっぱり生きたい」という無意識の欲望であり、その存在を認めざるを得ない。それでも、そんな簡単に生きれるほど世の中は甘くないのだ。反論はいくらでも出来るけど、これからどう生きていくか?ということを考えたところで、実行するつもりが無ければ、意味など無い。やっぱり、ボクには「死の崇拝」がお似合いなのだ。

 臆病なボクは受動的な死を待ち焦がれているものの、待てど暮らせどやってこない。となると、頭の片隅にある能動的な死も考えなくてはならない。あまり乗り気じゃないけど、研究室で首でも吊ってやれば少しは耄碌ジジイにお返しが出来るのではないかと思ったりもするが、ボクの理想はあくまで飛び下りなのでね。まぁ、ここまで書いたところで、理性がかなり強めの抑制をかけているので、ボクとしても自分がそんなこと出来るとは思っていない。理性に打ち勝てる唯一の方法は、グラスを満たす事なのだろう。心の中にグラスがあって、そこに良からぬ感情が雫となって、ぽたりぽたりと落ちてゆく。そのグラスが満たされ、ついに溢れ出した時、突発的な衝動はボクを揺り動かすのだろう。

 いろいろ書いてはみたものの、明日は出かけるつもりだし、明後日のおせちも用意した。死のうと思えば、いつだって死ねるのだ。それでも、いつでも普段通りの日常に戻れるようにしてはいる。こういうのが良くないんだよなぁ、とボクは思う。大事なことは、決断すること。例えそのような選択をしても、ボクが決めたことには変わりないし、自分にハナマルをあげよう。

 「幸福に生きよ!、ということより以上は語りえないと思われる。」
きっと、その通りなんだろうね。

*1:さしずめアイデンティティーと呼ばれるものだろうか

*2:もちろんそんな悪いことばかりじゃないことも知ってはいるけど

*3:とボクは思うのだけど

*4:良い意味でも悪い意味でも 不確実=可能性と見なす事も出来なくはないが、ボクは悲観的なのでね