strategy for suicide

カント曰く、「問答無用に心に響く理性の道徳と、自分自身の道徳が一致するように行動せよ」と。

 人の理性は2つある。仮言命法*1定言命法*2である。‘理性が二枚舌を持つ’というのはこのことなのだろう。

「生きていては、ほんとうの幸せにはなれない」という仮言命法
「自らを殺めることはいけないことだ」という定言命法
そして、板挟みのボク。そこで思ったのだけど、‘いけない’とは誰にとって‘いけない’ことだろうか?

 各人の認識というフィルターを通す以上、完全な客観など出来るわけがない。つまり、そういった価値判断は感覚的なもので、かつどれか一つが正しいわけでもない。例えば、人間にとって小さいリンゴは蟻からしてみてば大きい。さて、このリンゴは小さいか、大きいかといった議論をするのは意味を成さない。だから、周囲が‘いけない’ということは、ボクにとって‘いけない’ということは出来ない。

 常識とは、大多数の間で交わされる暗黙の了解なのであり、大多数からはじき出されたボクにとっては常識こそ非常識。だからといって、それを非難することはしようと思わないけど。スピノザニーチェは「存在の本質は、それ自身が存在し続けようと努力する」と言っているけども、死ぬこともまた存在を保とうとする働きなのではないかとボクは思う。

 結局の所、世間は肉体的な存在に重きを置くけども、ボクは精神的な存在に重きを置きたいという話。別に、死後の世界だとか魂が存在するとは思わないけど、あまりにも肉体に縛られ過ぎているのではないか。ボクの思考を司っているのは当然のことながら肉体ではなく、精神である。肉体とは精神の器のようなもの。それ以上でも、それ以下でもないのだ。ボクという存在を形作る核を無くしてまで生きる意味は無いと思うし、それを死守するという行為は実に前向きなことだと思えてならない。

 そこまで思考を巡らせても、結局は留まっているわけで。一体何が、ボクを繋ぎとめているのか、見当がつかないよ。それさえ分かれば、すっきりするのだけど。

*1:「最終的にはこのほうがトクだよ」と告げる理性→状況に応じてころころと変わる

*2:ただ「かくふるまうべし」と告げる理性→変化しない普遍的なもの