気まぐれな彼女

 最近は面倒で行けてないのだけど、高いところに行ってぼんやりと景色を眺めるのが好きだ。そこに行けば、彼女に会えるのではないかと思うものの、未だに会えずにいる。彼女は洋服と鎌選びで忙しいらしい。存在しない彼女の姿を見た時に、ボクは死ねるのだと思う。

 個人が集団に仕え、その利益を集団は個人に分配する。この仕組みは双方にメリットがあって初めて成立する。ボクが仕えるべき内容にも、そしてその主にも、申し訳ないけども価値を見出すことは出来ない。ボクにはボクの、彼には彼の言い分があって、それは互いに理解され合うことは無いし、おそらく力関係から言って彼の言い分が‘正しいとされてしまう’のだろう。彼からしてみればボクなんざ駒の1つに過ぎないし、それがどうなろうと彼自身の人生には何にも影響を及ぼさない。けれども、駒には駒なりの人生があるのだ。

 いつぞやの日記に、「言葉=自分の証明」であると書いた。彼の‘コトバ’はまるで言葉を弄び、嬲るようでいけ好かない。確かに悪意ではなく、単なる理解の齟齬だったのかもしれない。けれども、‘無意識の悪意’こそ残酷なものは無い。今となっては互いに敵意を持っているのだから、幾分気は楽だが。

 他人に期待することなく、自分が本当に幸せになる方法は、やはり死ぬほかない。それは、今まで幾度と繰り返してきた結論であり、もはや疑いようもない。幾度とその結論を導いてもなお、それが出来ない。ボクは死ぬために必要な何かが欠如していて、それを持っているのが彼女ということだろうか。少なくとも、ボクの「死にたい」という言葉は、単なる音と記号に過ぎない彼のコトバとは似て非なるもの。言葉を犯してまで生きるくらいなら、言葉と心中したほうが遥かに幸せだ。語り得ぬものについては、沈黙せざるを得ないのだから。