行為の裏側

 ボクが起こす全ての行為の‘源泉’と言えるものは一体何なのだろうか? 思いつく答えは「意思」といったところだけど、少し考えてそれは違うことに気づく。なぜならば、行為には必ず何らかの思惑が含まれていると、ボクは思うから。

 この前、新宿駅の周辺何か所で大学生と思しきグループが募金活動をしていた。南口で見たそのグループは、代わる代わる募金を呼び掛けると共に「今日も頑張っていきましょう!」と声を上げていた。大声で連呼され、正直耳障りで不愉快*1だった。加えて、何とも表現しにくい、大学のサークルのような雰囲気*2で、違和感を覚えた。一方、別の日に高校生の募金活動も見かけたけど、こっちは粛々とした雰囲気で、「やっぱりこうだよなぁ」と感じた。

 もちろん、募金を呼び掛けることは善いことだし、やるなら楽しくやった方が良いに決まってる。ボクもそう思うけど、彼らの振る舞いを見てると、「ESのボランティア欄のネタにするんだろうな」という見方をボクはしてしまう訳で。ボランティアには変わりないし、そういった類のことをやっていないボクが批判する権利も無いことは重々承知だけど、やはり行為の裏側には思惑が存在するのだと感じた出来事だった。

 道徳に基づく意思に加え、自身の思惑も絡んでくる。カントの言う「理性の二枚舌」とはこのことなのだろう。だからこそ、彼は「理性と欲望を極力一致させるよう努めよ」と言ったんだろうね。

 さて、ボクが常日頃から望んでいる自分という存在の消失。その願いは恐らく、思惑に起因する。だからこそ、無意識のうちに道徳が「ならぬことはならぬことです」と、理性の安全装置を作動させているのだろう。目下の課題は、その理性の安全装置をいかにして壊していくか。

*1:その直前にテストセンターで大コケしたせいも否定はしないけど

*2:内輪ノリの空気がこっちにまで伝わってくるような