はかる、ものさし、たがために

 客観的という概念は机上の空論に過ぎない。だってさ、客観的という認識自体に主観が含まれているでしょ? あくまで、主観的に「客観的」と判断しているに過ぎないんだ。

 人は、各々ものさしを持っている。ある人種はそれで世界をはかりとり、「あーでもない、こーでもない」と無意味な評を述べて満足している。もちろん、ボクのこの文章とてその例外じゃないわけだが。けれども、その人の言う良い・悪いという判断ほど当てにならないものは無い。
 ものさしで何かをはかるときには、互いに議論する土俵が必要だ。ヤフーニュースのコメント欄に目をやれば、めくるめく罵詈雑言。だいたいあの手のコメントを残す輩は思想的に片寄った人間がどうも多い気がするが。彼らは何を目的として、それを記すのか? 自分のものさしではかるだけはかって、飛び澄ました刃のような言葉を無差別に振り回す。弱っているときにそういうものを目にすると感傷的に塞ぎ込みがちになるボクもボクなのだが、自分のものさしを絶対的なものと信じて疑わないその振る舞いはどうにも好きになれない。

 ものさしで、真に何をはかるべきか? 自分のものさしで世界や他人をはかるなんて、無意味なことだ。ボクのものさしは、ボク自身をはかるのに適しているのだ。
 他人からの評価は大して意味のないもののように感じる。もちろん、人間付き合いの上でそうも言ってはいられないのは百も承知。その上で、今、自分の置かれた状況を測り取ってみる。

 この世界を取り巻く不条理との敗北。この世界を生き抜くだけの強さを持ちえなかった自分の弱さ。

 ボクが負けと言ったら、負けなのだ。なぜならば、ボクのものさしがそのようのはかりとったのだから。そのものさしが良しとする自殺を出来ずに、今日もまた未練がましく、オオカミらしく遠吠えをするのであって。