行為について

 ボクらの行いや言葉は内なる思想がそのような形を伴って具現化したものに過ぎない。言動を含めた全ての行為は思想から生み出され、善悪の判断基準を下す一人ひとりの正義の名の下に行われる。いかなる形であれ、人を傷つけるという行為であってもその例外ではない。

 ネットの世界に散らばった罵詈雑言を怖いもの見たさで覗き見ては、感傷という名の津波にボクは飲みこまれるのだ。切っ先と化した思想を無差別に振り回して、自らの正義を押し付けるような行為に果たして何の意味があるというのか? もちろん、ボクがそれに憂いて、自らの正義の下にこの思想を文章として表すというこの行為も本質的には同義であることくらい分かってはいる。ある種、自分に対する戒めのようなものなのかもしれない。

 最良の方法は、内なる思想を外に漏らさないことだ。なぜならば、絶対的な正義などあり得ない以上、どんなに優れた思想でさえ、具現化によって形質を有してしまった時点で、輝きは失われ、しなやかさは脆さに、剛さは固さに変わってしまう。

 いかなる行為は世界を素晴らしくする可能性と共に醜い争いの火種を孕んでいる。人間という種族が、薄っぺらい理性ではなく神のような絶対的な理性を備えていたら、この世界を楽園にすることも可能だったのかもしれない。ある人に指摘されたことだが、ボクは「人間を過大評価している」そうだ。自分の幸せのためには他人の不幸をも厭わない非情さが、この世界を生き抜くためには必要なのだ。

 四肢をもぎ取られ、口を縫い合わさせた達磨の瞳にはこの世界はどのように映り、何を思うのだろうか?