「唯心論と唯物論」講読3
◆三 意志と幸福欲との統一
- 時間の否認=常に時間の内部に帰すること
- 人間一般は自らの意志の自由の表象を否認から引き出し、またその証明を否認の中に見出していた
- 否認=自然的必然性または慈善的欲求の彼方ではなく此方に対象を見出し、その範囲は或る個別者に限定される
- 私の意志は存在の本質や必然性に矛盾しないものとして現れ、そこに私の自由が成り立つ
- 意志=人間の意志から独立な自然規定の内部での自己規定
- 「意志は理性的な欲求である」
- 人間一般は自らの意志の自由の表象を否認から引き出し、またその証明を否認の中に見出していた
- カントの実践哲学
- 目の前の木を捉えているのは思惟する理性であるが、木そのものは超感性的である
- 思惟しない人間は諸々の木を観て木そのものを見ない
- 思惟するだけの人間は木そのものに心を奪われて諸々の木を忘れる
- 法則の単なる形式を意志の対象および規定根拠にし、それに基づく意志を感性的欲求能力とは異なる能力-純粋意志-とした
- 純粋意志=あらゆる感性的諸動機から独立して、法則によって規定される能力
- 目の前の木を捉えているのは思惟する理性であるが、木そのものは超感性的である
- 法則と幸福欲
- 理性に適った正しい法則の源泉は幸福欲に起因する
- 知識欲:悟性のなかで満足させられる幸福欲
- 知識=人間が見知らない、熟知していない諸事物に対する不確実性・不安・恐怖を取り除く過程で獲得するもの
- 宗教:最初の事物(世界の創造)と最後の事物(人間の浄福と不死)に関する教説
- いかなる幸福欲が存在しないならば、そこにはいかなる意志も存在しない
- 悟性:諸事物を自分の中に取り込む本質・能力
- 意志:頭の中へ取り込まれたこれらの諸事物を再度私の中から取り出す本質・能力
- 「存在か非存在か」という問題を解決するのは意志と結びついた悟性である
- 意欲は有限性および時間制がもっているあらゆる諸条件および諸様式のもとにある
- 「私は意欲する」という言葉には「何を?」という疑問詞が不可分に結びついている
- 意志の質料から引き離された意志は無意味なものである
- 苦悩しないことを欲する=私の非存在の非存在以外の何物をも欲しない
- 私は私の死さえも欲する=死が私の人生におけるもろもろの悲惨事から解放する最後かつ唯一の手段である場合のみ
- 意志(Wille)、意欲(Wollen)は選択(Wahl)、福祉・好意(Wohl)と語源的に近しい
- 意志は現実的あるいは仮幻的であれ或る善に対する欲望または希求である
- 「私は意欲する」という言葉には「何を?」という疑問詞が不可分に結びついている
- 自由と意志
- 人間の意志は有用かつ必要と思い込む諸対象によって引き付けられ、有害と思い込む諸対象によって突き放される
- 人間が何を愛すべきであり、また何を恐れるべきかという認識は経験によって獲得される
- 人間は必然的に安寧・福祉を目指して努力する
- 強制からの自由と悲惨からの自由
- 物理的・心理的な強制からの自由な意志は同時に悲惨または害悪からの自由を求める意志である
- 人間の幸福欲を抑圧することは、人間の意志を抑圧することである
- 意志を持たないということは、人生におけるもろもろの悲惨ごとに無抵抗に身をささげることに等しい
- 意志は本質的に自由意思である