この意味を、誰も真に理解できない

 twitterにもちょろっと書いたのだけど、この世界は甘い欺瞞と愛すべき齟齬に満たされてるのではないかと、ふと思った。「私」という存在は、置かれた環境に対する自我に基づく認知・思考・行動と時間の積み重ねであるがゆえ、他者には理解が出来るはずがない。世界は私と他者から構成されているけど、他者の区別(例えば家族・友人・顔見知り・赤の他人といったように)は単に距離感によってなされているのだろう。どんなに近しい間柄でも、前述のとおり「私」を真に理解することは言葉を通じても出来えない。なぜならば、言葉そのものがその人自身の存在に直結したツールであり、言葉として発せられる経路は人の数だけ存在するからである。
 
 家族とは血縁によって結ばれた最も近しい他者であるが、そこに存在するのは本当にストルゲー(情愛)なのだろうか。ストルゲーが相互の理解を妨げているのならば、乱暴な言い方をすれば、血縁によって束ねられてるがゆえに単なるアガペー(聖愛)をストルゲーと錯覚しているだけなのではないのか。親の有りがたさも十分わかっているつもりではあるし、否定するつもりもないが、やはり一番近い他者なのだと感じた今日この頃。キリストは「アガペーこそ真の愛」と言うのだろうけども、「見ず知らずの存在同士が出会って愛を育む」ということはとっても清いことのように思えてなりません。今自分に必要なのは、エロース(恋愛)やフィリア(友愛)*1といった類なのかもしれないね。あ、可愛ければ性別は問いませんので(*^_^*)

*1:ストルゲー、エロース、フィリアはアガペーの部分的・模倣的なものらしいけど、別に神様のような人間を目指してるわけじゃないし、特定の相手でしか成立しないこれらの愛の魅力(人間臭さ?)はそれはそれで素敵だと思う