オオカミ、「幸せ」について考える

 ここ数日、ふとしたきっかけで「幸せ」について考えを巡らせていました。「幸せ」という概念は主観的なもので欲望と密接に絡み合っていると思うのですが、読みかけの哲学の本*1曰く、「人間の行動における価値判断は幸福に基づいており、幸福こそがその人の哲学である」と。

 個人的には「生きる」ということは辛く苦しいものだと思う*2のですが、毎日を過ごす上での大なり小なりの幸せ、例えば美味しいものを食べたとか、試験で良い点を取ったとか、「片思いの娘に告白したら上手くいって、さらに男の娘だった!」*3とか、そういった出来事によって人生は結局のところプラマイ0に収束しているのではと勘ぐってはいるのですが。「幸せ」とは麻薬のようなもので、心の隙間を満たされる快感によって「生きること」の苦しさを紛らわせているのではないかと。薬と毒は表裏一体で、その違いは人体に有用な効果をもたらすかの一点で決まります。「生きること」と「幸せ」のつり合いが上手くとれているときは良いのですが、このつり合いが崩れた時、「幸せ」への欲望が小悪魔のように人生を弄ぶことになるかと思うと、少しぞっとします。聡い理性に従いつつ、こっそりと欲望を満たしてあげる程度が一番良い塩梅なのではないでしょうか?

 「幸せ」は、時に血反吐をはくような思いをして、ようやく手に入れられるものだと思うのです。降って湧いたような「幸せ」もあることは否定しませんが、それはあくまで相対的な幸せであって、絶対的な幸せではないはずです。例えば、マラソンをしていて、淡々と同じペースで走る私に対して、前を走るランナーはペースが落ちています。いつしか、私はそのランナーを追い越すことになりますが、そうして手に入れた1つ上の順位はいわば‘たなぼた’に過ぎず、本当の勝負はその先にあるはずです。相対的な幸せは他者の不幸せの上で成り立っており、努力なしで幸せを手に入れることが出来ますが、あまり好ましいことではありません。もっとも、他者が日頃からその報いは当然と思われるような場合は別でしょうが。
 絶対的な幸せは、因果関係によって与えられます。すなわち、幸せを得るためには何らかの代償(もしくは対価)を支払わなければなりません。前の例で言えば、美味しい料理を得るためにはお金を、試験で良い結果を修めるには時間と労力*4を、可愛らしい男の娘と付き合うためには努力*5をしなければなりません。
 最近、自分が代償を支払わずに幸せだけを求めていることに気づき、酷く自己嫌悪になりました。「あぁ、最低の人間だ」、と。そんな人間に幸せを求める権利が果たしてあるのかと、自問自答する日々。いっそのこと「幸せ」なんて自分の存在もろとも放棄してしまったほうが「幸せ」なのかもしれないと、甘いパラドックスの誘惑に僕はすっかりめろめろです。

 一番言いたかったことは、「男の娘の脱ぎたてほかほかパンツ」があれば(僕は)幸せになれるんじゃないか、ということです。おわり。

*1:最近はラノベとコミックばっかりで、なかなか読む気になれないのですが・・・

*2:我ながら、酷く冷めた見方だとは思いますが。

*3:あくまで「幸せ」とは主観的。

*4:大学に入ってから試験はほとんど一夜漬け、ひどい時には浅漬けもとい朝漬けで済ませている自分が言うのもなんですが。もっとも、効率を重視した結果ですが。

*5:トーストをくわえながら‘彼女’が曲がり角に差し掛かるタイミングでエンカウンターしてみたり、一緒にクラス委員に選出されたり・・・