続・オオカミ、「幸せ」について考える

 今日は町田に出かけ、それは大変な散財をしてしまったのですが、その原因について考察を行った結果、その行為は「幸せ」の追求であることに気づいた訳で。7月12日の記事では「幸せ」を絶対的なものと相対的なものとで区分しましたが、今回はまた別の視点から考えてみました。
 まず、「幸せ」は内的要因のものと外的要因のものに分けられると仮定します。内的要因というのは、自分自身あるいは自分の行動そのものによって得られている幸せと定義します。端的に言えば、「存在意義が確立されている」状態と言えるでしょう。例えば、何か人より秀でている点がある*1という場合、自ずと他者や社会に必要とされるでしょう。つまり帰属意識の獲得によって、間接的に幸せを得ているということです。幸せだから秀でるのではなくて、秀でているから幸せになれると思うのですが、如何でしょうか? 
 一方、外的要因とは何らかの対価を払って幸せを得ること。美味しい食事をしたり、面白い映画を見ることで幸せを得ることが出来ますが、その対価としてお金や時間を支払っているのです。内的要因と比較すると、これらの行動は直接的に幸せを得ていると言えましょう。もっとも、‘幸せを得られる’という前提のもとで行動をしているわけですが、期待を裏切られることも良くある話ではありますが。
 これら2つのどちらが優れているかとかそういう話ではなくて、結局はバランスだと思うのです。内的要因と外的要因からバランスよく「幸せ」を摂取できているなら、理想的と言えます。しかしこのバランスが崩れた時、特に外的要因に強く依存している場合*2こそ「アイデンティティ・クライシス」なのではないのでしょうか?

 自分の場合、学業不振の真っただ中かつ一人身*3、もっと言えば親の脛をごりごりと齧って養ってもらっているので、内的要因で幸せを得られているとは到底言い難い状況にあります。ある意味では‘養ってもらえているだけ幸せ’だとは思うけど、高校の同級生が立派に働いていることを考えると、一方的に幸せを享受しているのは格好悪いし、肩身も狭いです*4。その反動という訳じゃないけど、最近は週1〜2ペースでファミレスでごはんと本を読みながら一人お茶会するのが日課になりつつあって、欲望のままに本を買い漁る始末*5。今日なんか、欲望に負けて‘回ってない’お寿司屋さんに行ってしまいました*6。店員さん同士の話から察するに、板前さんは自分より2つ年下のようで。自分より若いのにせっせと働いていて、片や一方であれこれ理由をつけて親に養ってもらいながら贅沢している自分。心なしか、それ以降お寿司の酢がきつく感じてなりませんでした*7
 何とかしなきゃいけないけど、何とも出来ない、いや何にもしない。自分が嫌で仕方ありません。現状を変えるきっかけはどこにあるのでしょうか? それとも、きっかけを探している時点で間違っているのかもね。
 
 最終的に何が何が言いたいのかと言えば、散財した言い訳なのであります。好き放題することでしか幸せになれない状況は決して好ましいとは思っていないのですが・・・ もちろん罪悪感に浸りながら大人買いしたり、お寿司をつまんでいたわけですが。あ、お寿司は美味しかったのですよ。でも僕には‘回ってる’お寿司屋さんで気兼ねなく食べる方が性にあってるように思いました。

「えっ、今日もまた散財してきたの? まったく、あんたっちゅう子は・・・」の図。

 東方はあまり知らないけど、可愛くて割と手頃な値段だったので思わずレジに連行願いました。この他にも特典欲しさでラノベ大人買い*8とか、もう嫌だorz

*1:それを帳消しにするような点があれば話は別ですが。

*2:逆のパターンはさほど問題ないと思います。

*3:大学に進めば、自然と付き合ったりできるもんだと思っていたのですが。今思えば、民主党(詐欺集団)の政策並みの詰めの甘さ。ブラジルの黄色いお菓子(ry

*4:などと言いながらも、相変わらず養ってもらうわけですが(^_^;)

*5:角コミがあるのも一因なんだけど。

*6:‘回ってない’お寿司屋さんは初めてだったかも。

*7:ま、あくまで比喩的表現であって、そんなことはないのですが(´・ω・`) 食べ放題だったので、苦しくて仕方なかったです。

*8:同じシリーズが家に積んであったり・・・