コトノハ心中

 去年の暮れあたりから駄文を書き連ねてみたり、2月の下旬からブログを再開してみたりと、ここ最近は言葉と付き合う機会が以前より増えました。それと同時に、言葉と自分という存在の関係がなんとなく分かって分かってきたような気がします。せっかくの機会なので、今日はそのあたりを整理してみようかと思った次第。

 5月頃、暗中模索な今の状況を変える術は無いかと思い、哲学の扉を叩いたことがありました。同じくその頃、「空気力学少女と少年の詩」という曲に出会い、その曲が使われているゲームに興味を持ち、調べていくとどうやらウィトゲンシュタインの影響を受けているらしい、と。かくしてウィトゲンシュタインの解説書を2冊ほど読むことになったのですが、結論から言うと「何言ってるのか、さっぱり分からない」。ウィトゲンシュタインの思想を受容できるほどのキャパシティを持ち合わせていない自分に、悲しくなりました。それでも、部分的な理解ではありますが、彼の言葉によって僕の心は衝撃的に揺さぶられたのです。

5.6 私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。
5.61 論理は世界に充満する。世界の限界は、論理の限界でもある。思考できないものを思考することはできない。かくして、思考できないものを語ることもまたできない。
7  語りえぬものについては、沈黙せざるをえない。
<「論考」より>

 彼の哲学は時代によって前・(中・)後期と分けられるそうですが、前期の終盤に見られる独我論的な彼の思想に僕は共鳴するのです。僕の拙い理解*1で要約すると、「論理を具現化する唯一の手段である言語の限界こそが、私の世界の限界である」ということ。加えて、彼はこんなことも言っています。

ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなくてはならない、ということだ。他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである。

と言うことは、「ウィトゲンシュタイン入門」をひぃひぃ言いながら読んだ挙句、さっぱり理解できないのも当然という訳ですね。いや、違うか*2。最近は、ありがたいことに、いろいろな人に話を聞いてもらう機会が多くてそれは感謝しているのですが、自分の言わんとしていることが完全な形では決して伝わらないと思うと一抹の虚しさを覚えます。だから、安易に「分かった」と言われると目の前で平然と「嘘」を付かれているようにも感じてしまい、少しだけ疑心暗鬼。

 いろいろ思考を巡らせながら、何となく自分なりに心と言葉の関係性を描き出せるものの上手く表現できずにもやもやしていたら、大学のテキストに言いたいことを簡潔にまとめられていた一文を見つけました。

思想、感情、意志を表現、伝達、理解するための記号体系である言語(8類)および言語芸術である文学(9類)について概説する。
<「図書館情報学テキストシリーズⅡ 10 資料組織演習」より>

 とどのつまり、心と言葉は泉と器のような関係と言えるのではないでしょうか? 心の泉から湧き出る思想や感情、意志たちを汲むことが出来るのが言葉という名の器なのだろうと思うのです。そして、言葉というのは自分という存在の証明である唯一無二の道具なのです。今まで言葉を、空気のように、そこに存在して当たり前であると思いながら使ってきました。けれども、改めて自分と言葉の関係を見つめ直してみて、今まで感じることはおろか考えたことすらもなかった、言葉への愛しさを感じています。

 心の変化によって泉から湧き出る‘水’の量は変化します。同じように、言葉の器も大きさも刻々と変化しているはずです。いつの日か泉が枯れ果てる日が来るでしょうし、それより先に器が壊れてしまうこともあるでしょう。言葉と心中出来たなら、それはきっと素敵なことだと思うのです。そして、新しい自分*3が生まれる。だから、その日を夢見て僕は言葉の力を信じながら、こうして言葉と戯れていよう。それが自分の証明なのだから。そんなことを思った、真夏の1日でありました。

*1:これを書くためにネットでいろいろと調べてみたのですが、調べれば調べるほど思考の糸が絡まります。

*2:再び読み返してみようとも思ったけど、やっぱり理解できないんだろうなぁ(´・ω・`)

*3:自分はどうあるべきか、どう生きるべきかを悟った状態と言えましょう。果たして、いつの日になることやら・・・