最近読んだ本と思考の変調

 実家に戻ってきたら少しはゆっくり本が読めるかと思っていたのですが…… 連日連夜ふらふらと出かけ、本を読む気分にもなれず、持ってきた本をしばらく放置していたのだけど。ここ最近、思考が黒い輪廻にはまってしまい、救いを求めるような気持ちで本を読むことになったのです。


 「キルケゴール」は7月に山梨に出かけたときに、「僕とツンデレハイデガー」は一昨日郡山に買い物に行ったときに購入。。どちらもジュンク堂で買ってるあたり、妙なつながりを感じたり。

 哲学に興味を持ち始めた頃、amazonでなかなか評判が良い、ちくま新書から出ているウィトゲンシュタインやカント、ニーチェの入門書をいそいそと買ってみた。「わかりやすい」というレビューの反面、僕にとっちゃちんぷんかんぷんで、「あぁ、哲学とは何回読んでも難解だなぁ*1(´・ω・`)」という印象を受けた次第。何とかウィトゲンシュタイン入門は読み終えたものの、カントは途中まで、ニーチェに至っては開いてもいないという始末。ニーチェさん、ごめんなさい。

 ウィトゲンシュタインさんの言語ゲーム論はそこそこ興味深かったんだけど、僕の求めているものとは少し違った。「人生とは……であるからして、〜〜していけばよい」みたいなものを求めていたわけで。まるでドラえもんにすぐ秘密道具をたかる*2のび太のような状態。今思えば、偉大なる哲学を前にものすごくぞんざいな態度。そんな折にこんなページを見つけて、徐々にキルケゴールに傾倒していったのです。そのページに挙げられていた本もまたamazonでレビューを見てみると、「当たり外れの大きいシリーズの中でも、大当たり」と高い評価。しかしながら、例の3冊の件があるので半信半疑な気持ちになりつつも、出先の本屋で購入。

 「いまから約10年前の1955年11月、……」という書き出しだったので、思わずうわぁ(´д`;)となったのですが、読み始めてみるとなかなかどうして読みやすい。Ⅰ部の「キルケゴールの生涯」はさくさくと読めて、その人となりや背景は興味深いものがありました。Ⅱ部の「キルケゴールの思想」に入るとページをめくる速度が緩まります。哲学書特有の味わい深い文章*3は時間をかけて反芻せざるを得なく、その様は雪深い峠の中を単行のキハ40がえっちらとゆっくり進んでいくかのようです。やっとこさ峠を越えたと思っても、まわり一面は白銀の世界。要は1回読んだだけじゃ、なかなかその思想を自分の中に涵養するのは難しいということです。
 要約まがいのことは理解の浅さを露呈させるだけなのでやめておきますが、ともあれ、この本は大分読みやすいので、これなら繰り返し読むこともできそうです。amazonのレビュー通り、当たりの本と言えそうです。いわゆる‘入門書’で痛い目を見ているこの僕がいうのだから、間違いありません。

 キルケゴールは当時流行していたヘーゲルらの学説に異議を唱え、、「自分がそのために生き、そのために死ねる真理」を探そうとしたのです。そして、実存の三段階を提唱した彼はキリスト教に救いを求めたわけだけど、最後までキリスト教を信じることができなかったわけですが。
 キルケゴールが反発していたヘーゲルの思想を、特に気に留めるでもなくさらりと流していたのですが、奇遇なことに別な本で知ることになったのです。それが「僕とツンデレハイデガー」。

 こういうのに親和性が高いもので、可愛らしい女の子が哲学をやさしく指南してくれると来れば、買う以外の選択肢をどうしてとることができましょうか、いや、できない*4。この手の本は内容が今一つだったりすることも多いのだけど、本書は哲学と創作をうまく織り交ぜているので、とてもよく出来た本だと思います。詳細はここここに任せるとして。
 主人公は8人の哲学者の顕現と出会うことになるんだけど、一番最初に会うのがデカルトデカルトと言えば、「我思う、ゆえに我あり」という言葉と気の良さそうなおじさま(個人の感想です)という印象が強いのだけど、その言葉の本当の意味を知ると味方ががらっと変わります。作者曰く、傲慢なお嬢様をイメージしたとかで、こんな娘が「ボク思う。ゆえにボクあり。」と言うだなんて、興奮せざるを得ません*5
 こんな感じで進んでいくのだけど、難解な哲学を平易に噛み砕きつつも、要所では原典を引用してあるので哲学の重みを感じられます。読み終えた後、「文学部の哲学概論の授業に潜り込んでみようか」と割りと本気で思った次第。

「人間って、お金があるだけじゃ幸せになれない。なぜだか不思議なことだけど、自分の中になにかひとつ“芯”みたいなものがないと、ダメなんだ」
「その芯とは哲学。なにが信じられるもので、なにが明日にはメッキがはがれているものなのか。確実なものはなにかと問いかける知識。これがない人間は、結局は弱くて不安から抜け出せない。わたしたちはそのことを、つい忘れていたの」

 “芯”の重要性を再認識するとともに、その種をせっせと撒き始めたのが今の状況でしょうか。各章ごとにそれぞれの教訓がまとめてあって、それぞれ異なる思想を持っていたのにもかかわらず、不思議なことにどこかつながっているように思えたんだよね。自分らしく生きることは難しいことだけど、その自分らしさの指針を得られただけでも僕にとっては大きな収穫でした。教訓を総括するような野暮なことはしないけど、もう少し衝動と欲望に甘えてみるのも悪くはないかもと思ったのでした。

 自暴自棄になって、持ちうる全ての可能性を投げ捨てることすら厭わないような状況だったけど、もう少しだけ自分の可能性というものを世界に投げかけると同時に、世界を通じて自分を見つめなおしてみるのも悪くはないかな、と思った次第。


 ところで、「どこかで見覚えのある絵柄だよなぁ……」と思って調べてみたら、「キュージュツカ」の挿絵の方でした。この8人の中だと、やはりデカルトたんに目が行ってしまうことを付け加えておきます。

*1:ダジャレですよ、ええ。それが何か?

*2:あえてこの表現を使いますが。

*3:または難しい言葉でまどろっこしい言い回しによる至高の言葉攻めとでも言いましょうか。手元の本に目を落としながら淡々と言葉を紡いでいく少女。ひとしきり説明し終えた後、ぽかーん( ゚д゚)とする僕を見て、「そんなことも分からないの?」と見下され、ぞくぞくする感じ? ちなうんです、ちなうんです! あくまで例えであって、僕はSっ気が強いんです! って、これは語りえぬことでありました、げふんげふん。

*4:反語表現。

*5:ボクっ娘に弱いことで定評のある高坂あかな。