Homo homini aut Deus aut lupus.

 人間は、人間にとって神でもあり狼でもある。

 17世紀の哲学者ホッブスは、「人間は慈愛溢れる神様のように振る舞うことも、欲望にままに生きる狼のように振る舞うこともある」と考えていたようだ。最近読んだ本に似たような記述を見かけ、「何の本に載っていたんだっけか?」と記憶の糸を手繰り寄せる。

 アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と定義した。(中略) アリストテレスは、社会から孤立して存在出来るものは神か森の獣だけであるといっている。神は万能であるから他者の助けを必要とせず、獣もまた本能に従って森で一匹で生きていける。しかし、人間はつねに他者と助け合いながら生きていく存在である、そのような社会的存在としての人間にふさわしい徳として、正義と友愛が大切である。
(もういちど読む山川 倫理 P35)

 ホッブスアリストテレス。言っていることは違うけれども、2000年もの時を越えて神様と狼(=森の獣)という共通の存在を引き合いに出している点は興味深い。 
 ボクは「人間なんて、何とも中途半端な存在だなぁ」と思ってしまう。神様にも、狼にもなることが出来ずに、理性と欲望の板挟みで葛藤するのだ。人間様にはそれがお似合いだね。

 社会の根底には「自己責任」。最終的に、自分を救ってくれる存在は自分しかいないのだ。神様のように全知全能でない以上、そのような世界で生き抜くためには狼にならざるを得ない。相手の喉元を掻き切って生きていく勇気などボクにはない。今のボクはせいぜいくそいぬといったところさ、わおん(∪^ω^)

 「何のために生き、何のために死ぬのか」という真理を追求することは重要なこと。だけどね、その理想を追い求めるリスクも考慮しなくちゃならない。このレール社会では、一度本線から外れてしまうとなかなか元に戻れない。どんなに望まなくたって、忌々しい目の前のレールを走るのが安直かつアンパイな選択なのだ。決断できない理由はそこ。周りは決断ばかり急かすけども、それに伴う責任は「自己責任」。尻込みするボクの気持ちなんてボク以外に分かりっこない。疑心暗鬼は増すばかり。

 ボクは「星周り」という言葉が好き。人生なんて神様のサイコロ遊びに過ぎないのだから、ボクにはどうしようもできないことだってたくさんある。「もしも研究室生活の出だしがスムーズだったなら……」、「もしも違う研究室に入っていたならば……」、「もしも違う教員が着任していたら……」、そして極めつけは「もしもボクが生まれていなければ……」。時折、ボクは反実仮想の世界へ思いを馳せる。これまでの数多ある分岐点で、ボクが選択していった結果が今の状況なのだから、周りはボクの自己責任を追求し、糾弾する。「星周り」によってボクの人生がある程度既定されているとすれば、ボクが精いっぱい足掻いたところでどうしようもないのだ。神様はまつろわず。そりゃ、神様を槍玉に挙げるだなんてとんでもない。ちっぽけなボクを攻撃するわな。

 いつだって、周りは勝手なことを言うものだ。狼になれなくとも、せめてオオカミくらいにはなりたい。そんなことを考えていたら、以前国立科学博物館で見たニホンオオカミの剥製を思い出した。ずいぶんとまぁ可愛らしい顔をしていて、「エサとなる小動物も取れやしないだろうに……」てな印象を持ったのを思い出した。
 結婚して子供を2人くらい設けるというのがささやかなボクの夢なのでありますが。「独身なんで言語道断。親の身にもなってみろ!」って哲学のH先生も言ってたしね。そう考えたら、ごくたまに牙を剥くぐらいの草食系オオカミとして平和的に生きていくのも良いのかもしれないね。

 Cave! Deus videt. ということなので、これを神様がご覧になられてましたら、ご検討のほどよろしくお願い致します。何なら、可愛らしい男の娘でも構いませんので。投げっぱなしで〆る。