パリンゲネシアに恋してる

 院の授業で研究室と同じ建物に足を運ぶ。いつまでの深淵に腰かけてぼんやりと見えぬ底を見続けているわけにもいかないので、教授に会う。その結果、5限のゼミに召喚されることに。

 嫌々ゼミに出る。昼に会った際、テーマを変えたいと伝えた上で「それを望むのなら」と言ってたのに、ゼミでは従来のテーマをやるような話になってるのだけど…… 研究がどうだの、発表がどうだの、周りの話を聞いてると、まぁご苦労さんですね、と。彼らが純粋に仕事だと割り切って研究を進めているのならば、それは感服するね。それともいくらかの興味を持っているのだろうか。嫌だとしても、死の概念を持ち出すほどじゃないだろうな。
 やっぱり、ボクには出来ないのだと思った。久しぶりに顔を出した程度で死を意識するのならば、これが毎日続いたらいつしか衝動が抑えられないのではないかと思う。それ自体は悪いことだとボクは思わない。今、ボクが置かれているパリンゲネシアから脱することが出来るカタルシスなのだから*1。一番恐れていることは、ずっとパリンゲネシアに囚われていて、ただただ時間を浪費すること。

 帰りの電車の中、不謹慎ながら*2も「脱線でもしないものか」と思う。戒めを込めて、「生きることも死ぬこともままならないグズ」と心の中で自分を罵る。胸がちくりとして、微かに体の感覚が薄くなる。あたかも、深淵から湧き上がる霧に包まれた感じがする。霧は甘くて、ぼんやりとしてくるのだ。周りの乗客や車内アナウンスでさえもボクを攻撃してると思い込めば発狂できるかと思ったけれど、そこまでは至らなかった。車内アナウンスを「のうのうと生きてて恥ずかしくないの?」と思い込んだところで、はっきりと「次は本厚木、本厚木とこの先新百合ヶ丘で各停と接続。」としか聞こえないのだ。

 空を飛ぶには、どうしても理性が邪魔をする。ならば、理性を壊してしまえば良い。毎日研究室に足しげく通って鬱積とした思いを募らせ、どす黒い感情の純度を上げてゆくのだ。理性を嬲り、犯し、破滅と追い込む。あとは突発的な衝動に身を任せればよい。ほらね、簡単でしょ?
 布団にくるまって、おなかを切り裂いてはらわたを取り出す自分を想像した。何か違う。肉体的な攻めよりも精神的な攻めの方が、ボクにとって塩梅が良さそうだ。気付けのお薬は攻めの痛みを麻痺させるだけだから、しばらく控えようと思う。満身創痍になれば、生きることへの執着も消え失せてくれるだろうから。

 今生での一切合財の罪は、いずれ堕ち行く地獄での審問できっちり追求を受けるつもり。万人を唯一裁けるのは閻魔さまだけなのだ。ちっぽけな人間ごときが他人を裁けるなんてちゃんちゃら可笑しいですよ、まったくね。
 ふと、ウィトゲンシュタインの「幸福に生きよ!」という言葉を思い出した。彼曰く、「生きる意味」も「人生の目的」も「本当の幸福になること」であるらしい。今のボクは「生きる目的=本当の幸福の追求=死ぬこと」なんじゃないかと推測してる。パラドックスを孕み過ぎていて、ボクもわけがわからないよ。でもね、なんだかんだ言ったって、今の歪んだパリンゲネシアも嫌いじゃないのだ。変化を嫌うあまり、ぐるぐると巡りめぐって現状に回帰する。だから結論がでないわけで。

*1:覚えたばかりのそれっぽい言葉を使いたいお年頃

*2:ボクが死を望みながらも、無関係の他者を巻き込むのはあまりにも無責任で自己中心的であることはちゃんと理解はしている