柿食み思う

 今年も店先に柿が並ぶ季節になったが、今までは特に気に留めることもなかった。もっと言えば、柿なんぞ食べようと思ったこともなかった。いわゆる食わず嫌いである。何年か前、親戚の家を訪ねた時に柿を出され、いくら食わず嫌いでも全く手を付けないのもどうかと思い、一つ口に運んでみると、思いのほか美味しかった記憶がある。そんなことを思い出し、先日自分から初めて柿を食べてみようという気になり、柿を買った。扱い慣れてない柿を前に、不器用ながらに皮をむき、一切れ食べる。優しい甘さがした。こんな美味しいものを今まで食べずに過ごしてきたとはと、少し後悔した。
 柿と言えば、故郷の特産物に「身不知柿」がある。その名前の由来には諸説あるらしいが、そのうちの1つは「枝が折れてしまうほど実をつける」というものだ。さらに、この柿は渋柿なので焼酎やエチレンガスで渋抜きをするようだ。「渋くてそのまま食べれないような実をたくさん実らせ、挙句の果てに枝を折ってしまうなんて……」と不憫に感じたものだが。
 自分ひとりではどうしようも出来ないくらいの不安や悩みを抱え、やりきれずに自分を害すことすら願っている自分の姿が身不知柿に重なる。支えきれないほどに実った渋柿に頭を抱えるものの、裏を返せば‘自分という存在が生きている’ということの証拠なのだから悲観することは無い。問題は、渋抜きの方法とその時間なのだ。幸いにも、自分には幾分かの猶予が与えられている。あとはその方法である。
 心に加え、体にも変調をきたしていた初夏の頃、すがるような思いで哲学に答えを求めた。入門書と銘打った書物でも難解なその内容に落胆することもあったが、歴史に名を残すような人物もまた同じように悩んでいたと思うと、少しだけ心が軽くなった。生きる意味、そして人生の目的は‘本当の幸福になること’と考えたウィトゲンシュタインは次のように言い残した。「幸福に生きよ」と。哲学による薫陶は、不安や悩みを生きる糧に変えてくれるような気がする。
 甘柿しか食べたことがないのだが、渋を抜いた渋柿は甘柿に比べ、それはそれは甘いそうだ。たわわに実る渋柿を前に、思わずごくりと喉がなる。そしてにやける。取らぬ狸の皮算用にならぬよう、ひたむきに渋柿と向き合っていこうと決めた秋の夜であった。

 ところで、正岡子規の有名な一句「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」、ネットで解説のページなど見てみると写実がどうとか、風景が浮かぶようだとかそんなことしか書かれていないが、とあるページに目が留まった。
 当時、季語として取るに足らない果物であった柿を取り入れ、ありのままの日常を