step of spring

 明確に「確実である」とはっきり言える唯一のもの。それが「死」であるとボクは考えている。

 刻々と変化してゆく世界の中で、ボクらは何を頼りに生きてゆけばよいのだろうか。夢? 目標? 可能性? そんなものはまやかしに過ぎない。理想を描くのは大事なことだけど、理想を目指すのならば、同時に誰よりも現実を認識しなければならない。

 アウグスティヌスは、時間なんてものは客観的なものではなく、意識の錯覚に過ぎないとした。時間は人間の主観的な意識と相対的なもので、過去は記憶、現在は感覚、そして未来は予期。時間とは心の中に存在しているものなのだ。

 ボクらが予期しうる様々な事象を可能性とするならば、未来のある一点において与えられる結果は常に一つであり、それ以外は思い違いに過ぎない。可能性だと思い込んで幻影に手を伸ばす姿は滑稽で、嘲笑の的になる。少なくとも、社会とはそういうものだ。可能性という不確実なものに溺れるくらいなら、確実な「死」に飛び込んだ方が遥かに幸せだろう。

 学校を出て、仕事に就く。特に学生という身分だと、‘就職’がゴールのように思えてならないが、それは結局通過点に過ぎない。本当のゴールは誰しもが必ず迎える「死」であって、数多の予期の中で唯一確実だと言うことが出来る。

 人生の意義は「幸せになること」だ。ここからは憶測になるが、ボクにとって就職は厳しいものになるはずだ。現実と直視してみると、ボクという存在はそこらの凡人と何ら変わらないか、それ以下だから。就活では、非凡人ということが力を発揮する。何か一つでもいいから、人とは違う何かを持っていたら勝ちなのだ。きっと、ボクは空っぽに違いない。

 苦労して仕事に就いたところで、幸せになれるという確証は無い。それも当たり前の話しで、生きるという行為自体が極めて不確実な行為だからだ。他者との繋がりの中でしか生きられないボクらは、自分のみならず他者の行動によって利益・不利益が与えられる。今の自分の置かれている状況を見れば一目瞭然だろう。すべてが他者の責任にあるとは言わないが、言葉を単なる音もしくは記号としてしか機能させない人間に出会ってしまったことは、ボクにとって大きな痛手だった。言葉が意味を成さない相手に伝えようと頑張ってみたが、今になって何て無駄なことをしていたんだろうと気づいた。それでいて、責任は全てボクに降り注いでくるのだから、生きるのが馬鹿らしくなってくるよ、本当に。

 ここ数か月はそんなことばかり考えているのだが、相変わらずボクは生きている。いや、死のうと思えばいつだって出来るのだ。ただ、やらないだけで。結局、何も変わらないと思いながらも、ボクは密かに可能性に恋してるんだろう。いつでも死ねるんなら、可能性に振られてからでも遅くはない。醒めない眠りに就くことを祈りつつ、そろそろ寝ることにしようと思う。