楽園追放

 ボクをボクたらしめるのに必要な行為、そう分かっていてもなぜ実行に移せないのか?

 自殺は生半可な気持ちで出来る様なものじゃなく、強い信念が求められる。そういった意味で、崇高な行為と言える。一方で生きるという行為は、人によって千差万別であるが、信念を持たずただ自堕落に変わり映えのしない毎日を過ごしていても、現に存在している以上、息づいているのだ。ただ、ボクはそのような生き方を良しとしないが。

 「生きる」という行為に必要なものは何か? それは意志だとボクは考える。人間は恒常性としてその存在を維持しようと努める。身体はその肉体を保ち、精神はアイデンティティを保とうと。ここで問題になるのは、精神の働きによって自分と言う存在の消滅を願った場合である。この場合、身体と精神は恒常性を巡って対立することになる。幸か不幸か、今まで生命の危機を感じることなく生きてきた。だからこそ、ボクという存在を考えた時に問題となるのは専ら精神の方だ。

 どのように生きていきたいか? 人間の行為の源泉となるのは意志である。これだけは間違いないと胸を張って、意志を反映できる行為。人によってはそれが仕事であったり、恋愛であったりするのだろうけど、ボクにとっては自殺だった。単にそれだけの事。結局のところ、ボクは満足に生きられないのだ。ボクに足りないものを補ってみても、別のものが不足していることに気づく。それの繰り返し。いわば、絶えず空腹を感じながら生きていくようなものだ。常に努力できるのなら問題はないが、ボクにはそれが出来ない。結局、こうなってしまったのも努力が足りなかったのだと言われれば、反論する術がない。

 この世界は優しい。アイデンティティを失い、ただぼんやりと生きていてもそれが許される。でもね、それは本当に生きていると言えるのだろうか? 虚ろな自分自身を自らの手でこの世界から追放したならば、失ったアイデンティティを取り戻せるのではないかと密かに確信している。