ヤドカリなボクら


 ペットショップでヤドカリが売られる季節になった。

 ヤドカリと言えば、子供の頃にスーパーの鮮魚コーナーでなぜかヤドカリが売られていた。買ったことは覚えているのだが、世話をした記憶がないので、おそらくすぐに興味を無くしてしまい、長く持たせることは出来なかったのだろう。あのヤドカリには悪いことをしてしまった。

 ヤドカリは成長に合わせて貝殻を変えることで知られている。ヤドカリの体を人間の魂、貝殻を人間の身体とすれば、「ボクらもヤドカリのようなものだ」とヤドカリを眺めながら、ふと感じた。

 魂を内包する体を維持するために、食事をしなくてはならないし、もっとも生きていくためにはお金を稼がなくてはならない。とすれば、貝殻は人間の身体という限定されたものではなく、ボクらが人間であるための器と言える。もちろんそれには社会的な地位であるとか身分といったものが含まれるから、良い大学を出て、立派な企業に就職しろうとするのは、より優れたな貝殻を得ようとするのと同じことである。

 「我々が魂だけで存在出来たなら、どんなに楽かと僕なんかは思うのですがね」 哲学の授業で初老の先生が冗談めかして言ったこの言葉が、今でも印象に残っている。

 もちろん、綺麗で立派な貝殻を探すための努力はするべきだろう。けれども、無尽蔵に貝殻は転がってはいない。自分に合った貝殻が見つけられないヤドカリは「もっと努力すべきだ」と言われるわけだが、よくよく考えてみればヤドカリ自身で貝殻を作れるならともかく、限られた貝殻の取り合いになるわけだし、ややもすれば自分に合う貝殻が存在しないことだってありうる。貝殻を見つけられないヤドカリに「努力が足りない」と一蹴するような輩に限って体裁をやたら気にする。要は、貝殻を身につけていなければヤドカリとみなしてはくれないのだ。ぶかぶかの不釣合いな貝殻を取ってきた時には「よくやった」と褒めるものの、次の瞬間には「何だ、その貝殻は」と言い出すような連中なのだ。

 ‘ヤドカリ’達は貝殻ばかりに気を取られ過ぎているのではないかと、ボクは思う。妥協するくらいなら、貝殻なんか捨ててしまえばいい。もちろん、他のヤドカリはこぞって非難するだろうが。一説によると、タラバガニの祖先はヤドカリの祖先と同じだという。貝殻を捨てるのも、案外悪くない。あとは、その勇気だけ。

 ボクの行く末はヤドカリか、それともタラバガニか。