変わらないもの、変わっていくもの

 変わらないものがある。

 変わっていくものがある。

 パルメニデスの論理に未だに囚われている。本当に存在しているといえるものは「唯」であり「静」なのである。一方で現実の世界は運動と変化に満ちており、「多」かつ「動」なものと言える。

 これについて、パルメニデスの弟子であるゼノンがこの矛盾を解決しようと反芻・深化させているのだが、彼らが生きた時代における世界への眼差し*1と現代のそれが違い過ぎているので、議論の土俵に立つことは難しい。もっとも、ボクの理解力の無さも原因なのだが。

 「幸福」が概念として存在するためには、やはり「唯」かつ「静」なものでなくてはならない。100人のうち99人が「幸福だ」と思える事象においても、1人でも「それは違う」と思ったのならば、それは本当の幸福ではない。幸福の主体は個人、全体のどちらに置くべきか? ボクがありもしない理想を追い求めていることは、自分自身が一番よく分かっているつもりだ。

 社会を海に例えるなら、人間は一滴の雫だ。海の波は一滴の雫の移動ではなく、1つの雫が上下方向に高さのみが変化し、それが雫間を伝播しているに過ぎない。ボクら一人ひとりが海を成す一部である以上、「唯」で「静」であることは不可能だ。ゆえに、「幸福」という概念に近づくことすら出来やしないのだ。

 ボクが息吹を止めた時に、初めてその存在が変化しなくなる。その瞬間、ちょっとだけ「幸福」に近づける気がするのだ。

*1:例えば「アキレスと亀」の逸話は、根本的に誤りを含んでいると直感的に理解できる。