ヒカリの差す方へ

 人生は暗闇の中である。

 人は皆、ヒカリを求めている。だから、人々に安定的に“明かり”を供給するシステムを構築する。それが社会という共同体である。国家、企業、家庭。形や規模は異なるが、その根底理念は等しい。裏を返せば、共同体に含まれない人間には“明かり”は届かない。
 特に、政治・経済といった国家の基盤となるような分野を牽引する政治家や官僚、企業家たちの行動基準は「いかにして利潤を追求するか」というものである。利益が大きければ大きいほど、共同体の明かりは眩しいほどに輝く。さて、共同体の“明かり”はどこからやってくるのか。送電線を辿ってゆくと、発電所が、そこにある。

 電力会社は補償をしたくない。なぜならば、利益にならないからだ。国は収束宣言を出す。なぜならば、原発のシステムを海外に売り込みたいからだ。

 万が一に備え、地場産業に乏しく経済基盤が弱い田舎に原発を作る功利主義は正しいか? ボクは思うのだが、人間の一生*1は数的・量的に取り扱える代物ではない。
 いわゆる「トロッコ問題」もその類だろう。自らの手でポイントを操作することによって、トロッコが作業員を轢き殺すということだけが問題なのであって、骸の数はさしたる問題ではない。功利主義の観点から言えば、戦争を終わらせるために原爆を落とすことも仕方がないことになる。「大多数の命が救われたのだから、それで良かったではないか」とアメリカ人は言うのだろう。歴史上の殺戮行為に関しては、結局のところ「勝てば官軍、負ければ賊軍」の要素が強いような気がするのだ。ナチスドイツほどアメリカが批判されないのは、勝者であるから歴史を正当化できるに過ぎない。原爆もアウシュビッツもやっていることは同じだ。
 結局のところ、戦いに負けるということが諸悪の根源なのである。原発が置かれるようなそういう田舎に生まれた時点で負けなのだ。田舎は都会の婢女にならなければ、共同体が維持できない。地方分権道州制を進めたところで、その地域内での格差がある以上、田舎の置かれる立場は変わらぬまい。だからと言って、別に社会主義を賛美するつもりも無いが。
 故郷に戻ってきた。そこには変わらぬ人々の暮らしがある。けれども、この土地で当たり前の生活を営むことですら侮蔑・嘲笑の対象にされてしまうのだ。かの日の出来事は、自然の災いよりも人間の災いのように思えてならない。原発に関しても、原発のシステムそのものの問題ではなく、それに携わる人間の問題なのだろうと思う。

 繰り返すが、人生は暗闇の中である。

 とはいえ、最初から闇に包まれていたわけではない。「生まれる」ということ自体、輝かしい出来事ではないか。けれども、この世界の不条理を知り、太陽は雲に隠されてゆく。だから、人は“明かり”を求め行動するのだ。
 損得勘定を行動の基準にするような人種になるべきではない。ボクが目指すべきは革命家だ。「人は恋と革命のために生まれて来たのだ」と太宰治の「斜陽」*2に書かれているのだろう。革命家の行動の基準は「それが正義であるか否か」である。正義のためなら自分の死も厭わず、誰かを殺すのもお構いなしだ。法律は革命家の歪んだ正義の前には何の効力も持たない。けれども、それで構わないではないか。そもそも、万人に平等な正義などあるはずもなく、正義それ自体が歪んでいるものなのだから。正義と言えば聞こえが良いが、実際はエゴイズムである。けれども、「人の命は平等だ」と建前で言いながらしたたかに功利主義で物事を進めるよりは、よほど潔い。

 ボクが欲しいのは発電所で作られた“明かり”ではなく、万人をあまねく照らす“ヒカリ”なのである。人生を煌々と照らした太陽は当の昔に消え去った。今度昇ってくるのは、暗闇を照らす月である。爛々たる“ヒカリ”で人生の終焉へと、月はボクらを導いてくれる。今のボクがなすべきことは、自らの正義に基づいて自ら死ぬことに他ならないのだ。

 ボクは進まなくてはならないのだ、ヒカリの差す方へ。
 

*1:ただ、現在進行中のこの話で言えば「人の命」といったほうが、将来的に正しいような気がするが

*2:いまだに読めずにいるのだが