三島由紀夫/「金閣寺」

 

 夏のおわり、文学のはじまり。初秋の文学強化週間1日目。

 かねてから、「行為」の持つ意味について考えている。「行為」とは自らの思想が具現化されたものであり、それ自体がどこかに正義(またの名をエゴ)の断片を含んでいるに違いない。ゆえに、自らの「行為」に対して、善き行いであれ悪い行いであれ、きちんと責任を負わなくてはいけないのだ。

 ジョギング(今は帰省中なので休んではいるが)の最中に流れる「キンカクジ」に、「そういやそんな本があったよな」と思い、本屋に足を運んで手に取ってみた。この機会を逃せば、一生「金閣寺」を読むことはないような気もしたので。折しも、新潮文庫の「ワタシの一行」なるフェアの対象になっていたので、それにならって「ボクの一行」をば。

 「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」(中略)「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」(P273)

 三島由紀夫という人間について、ボディビルで体を鍛え、自害したことくらいしか知らなかったが、彼の生き様もまた「溝口」と同じく行為に主眼を置いたものだったように思えてならない。

 ひたすら小難しくて、ひぃひぃ言いながらなんとか読み終えた。あぁ、文学とは難解なものだ。これとかこれを参考にして、ちょっとだけ理解できた。が、真なる意図は作者だけが知っていることであって、こういった解釈は見方の一つでしかないわけだが。

 「文系は作者の気持ちでも考えてろよwww」 

 ネット上ではこんな煽り文句があるが、「作者の気持ちを考える」ということは作者という他者が文学形式をとって表現しようとしたその行為の真意を探ることに他ならず、極めて高度な営みであるとともに社会性の基盤と言えよう。ちなみに、理系の煽り文句は「理系は質量の無い滑車ででも遊んでろよwww」 らしい。

 すべての行為は自らの確固たる正義(=エゴイズム)に基づかせるべきだ、というのがボクの持論。社会の法律であるとか秩序というのは、大多数の人間にとって都合の良いものであって、絶対的な正義ではないとボクは思っている。であるならば、正義の拠り所とすべきところは自分自身に他ならない。極論、罪を犯すという行為の源泉が純然たる正義またはエゴイズムであるならば、それは当人にとって罪は恐るるに足りない。刑罰の根底にあるのは「犯罪を割の合わないものにする」という考えだろうが、そもそも絶対的な正義を前にちっぽけな損得勘定など何の意味を持たない。そこにあるのは、その行為が自分にとって正しいかどうかだけである。残念ながら、罪を犯すつもりは今のところないが……

 ところで、「初秋の文学強化週間」などと銘打ってはみたものの、最低でも7冊読まなくてはならないので、余計なことを言わなきゃよかったと後悔しきり。