高坂原論4

■「退学願といふもの」
 たかだか一枚の紙切れに過ぎないと思うなかれ。退学願が持つ重みは、想像より遥かに重いものなのだ。

 退学願を巡るやりとりの過程で生じたいざこざ。
1.退学理由(詳細に)と書かれていたので詳細に書いたら書き直しを命じられる
 ボクはただ、書面の指示に従ったのに過ぎない。けれども彼らはそれを見て、「攻撃的で、君の評価を損なう」ともっともらしい理由をつけてボクに書き直させた。去りゆく人間がどうして評価を気にしようか? この先、一生ついて回る「退学」の二文字がボクにどのような評価を下すだろうか? それに比べたら内部のみみっちい評価なんぞ無視しても構わないぐらいのもので。評価を本当に気にしているのは果たしてボクか彼らか。
2.上の出来事に付随し、新たな退学願を「ごまかして」貰ってくるよう命じられる
 当然、新しい退学願が必要になるわけだが、書類上の指導教授は「書き損じたとかいって適当にごまかして貰って来い」と言う。書き直す前の退学理由に「欺騙を含んだ対応を受けたこと」を挙げた人間に、よくもまぁいけしゃあしゃあと嘘を強要する出来るものだ。むしろ清々しさに感心さえする。もっとも、ボクはそれが気に食わなかったので、教務課で事の顛末を正確に伝えた上で、新しい退学願を貰ってきたが。
3.所見欄に事実と反することを書かれる
 「これで良いよな?」と言われ返された願の所見欄には「体調回復に努め、復学を目指す」と書かれていた。もちろん、復学する気などさらさらないのにだ。こういう書類が審議される場でスムーズに話を進めるために必要なテンプレートみたいなものが存在するような気がしてならないのだが。部屋を出る際に一言、二言交わしたのだが、「君は精神的にどうかしてる」とお墨付き。ならば体調の問題ではなく精神の問題とするべきだと指摘しておく。ぱっと見、無害そうなその教授だが、顔色一つ変えずにこれ程までに嘘を躊躇いなくつけるのなら、教授なんかよりも別の仕事に就いた方がよっぽど良いと思う。
 ちなみに、主任教授に判子を貰いに行った際、復学の件について聞かれたのでありのままを話す。後で思えば、完全に見て見ぬふりをされてる。

 環境を変える提案を受けたこともあって、退学願は主任預かりに。けれども、冷静になって考えてみたら、嘘が蔓延している環境の中で配属先を変えることにどれほどの価値があるだろうか? むしろ、その提案を飲んだ時点で、自分自身の信念を自ら犯すことに他ならず、肩書にそれほどの価値を見出す事はボクには出来ない。
 退学願というのは「諸般の事情に関わらず、退学という選択に付随する一切の責任を自ら受け入れます」という意思表示だとボクは認識している。教授たちからしてみればこれまで幾度となく書いてきたものだしほんの一部にすぎないが、ボクからしてみればそれが全てなのだ。これから自ら死ぬことになろうが、死ねずに生き長らえてしまうことになるのか、それは分からない。が、これからの礎となるその書類に対してボクは限りなく真摯に向き合い、その全てを受け入れる覚悟を決めた。だからこそ、その礎に勝手な都合で偽りを加えられては困るのだ。こう主張することさえ、ボクには許されないのだろうか?

 嘘をつかぬよう努めることは、別に殊勲なことではなく、あくまで自然なことだ。けれども、それを実行しようとして、なぜこれほど理不尽な目に合わなくてはならないのだろうか? 嘘・偽りというものにいささか過敏になりすぎている感もしないではないのだが、これほどまでに虚しい環境に身を置いているとは思いもしなかった。この2年半で素晴らしい猜疑心が涵養された。その点では彼らに感謝したいと思う。