高坂原論6

VISION

 今学期は社会学の授業を履修している。社会学において、「規範」が人間の「行為」をコントロールできなくなった状態を「アノミー」といい、非行・犯罪・自殺といった逸脱行為はこれによって説明できるらしい。
 非行・犯罪はともかくとして、希死念慮を抱いているボクは自殺にある種の憧れのようなものを抱いているのだが、社会的に見ればそれは異常な状態と見なされ、それを実行すれば批判の槍玉にあげられる。自ら死を選択した人間の想いの一欠片すら分からない(分かろうとしない)自殺と言う行為に批判的な人間が、その根拠としているのは「存在することによる絶対的な価値」だとボクは考えている。
 でもね、ボクはそれは間違っていると思う。ボクが存在しているというのは理性的な働きじゃなくて本能的な働き、生物学は少しかじった程度の専門外なので用語の使い方に誤りがあるかもしれないが、ボクという存在を保ち続けようとする作用も言ってみれば一種のホメオスタシスみたいなものだろう。それに引き換え、ボクという存在が何らかの行為をする場合、存在と行為の間には意志が介在している。本能的な作用によって維持される存在があって、その上に理性的な作用によって行為がなされることによって、はじめてその存在は価値を有するのだ。極論、何も行動に移せない現状よりも、例え自殺であっても変化を求め行為を起こすことの方がよっぽど尊いことだとボクは思う。

 奇妙なことに、自殺をしても批判されないどころか逆に理解や同情されるケースもある。哲学者や文学者、芸術家などの自殺がそれである。せっかく自殺をするのなら、その職業で生計を立てられなくても構わないからせめてそういった肩書を得て自殺するのが一番スマートな気がする。

 自らの命を自らの手で狩るという行為の出発点は、「存在至上主義者」が無条件に信じて疑わない自らの存在に対する疑念に他ならない。ボクという人間が現に存在していること自体が咎であることをひしひしと痛感しながらも、物質的世界の欲にまみれ、精神的世界の欲を満たすであろう一つの方法である死に躊躇いを感じている。

 大きな鎌を携えた少女との邂逅を待ちわびて、ボクはあとどれだけ未来を見据え続ければよいのだろうか?