高坂原論7

■言の葉種

天使の科学 空気力学
屋上の縁に立ち 見下ろす世界は
消えてなくなる 言葉に溢れてる
さあ 飛び出せ 羽ばたけ 私の翼よ 今


神様の声 空気力学
ギリギリの場所に立ち 見上げる世界で
生まれた言葉 空を埋め尽くすよ
さあ 吐き出せ 世界を 創り直すんだ 

空の青 水に変わり 溺れる人々
世界が沈み 私は輝く翼で
水を掻き分けて 行くんだ
あなたに届く力で 飛ぶんだ 沈んだ世界を 今
*「空気力学少女と少年の詩」(1番のみ)

 ボクらの世界を埋め尽くし、消えゆく言葉。言葉とは一体何だろうか?

 また政治学の授業で見た映画の話になるのだが、核廃棄物を10万年保管する「オンカロ」。その危険性を後世の人々に伝えるにはどうするべきかというテーマでは①危険性を示す標識や文書を残す、②そういった類の物を残さずに人々の記憶から忘れ去らせるという2つの意見が対立していた。個人的なことを言えば、さすがに②は人道的にどうだろうと思うが。①の意見では現在の文字が後世に残る確証が全くない事から、本能的に危険を感じ取れるようなイラストやマークも併用するみたいな話だった。

 人間の表現方式は絵画や音楽といった芸術と言葉による文学に大別できると思う。前者は本能的に感じ取るもので、後者は理性的に感じ取るものという差異がある。どちらがより優れているかという話では無くて、それぞれの特性としての話だ。ボクらが使っている言葉による表現方法・意思疎通の手段はあくまで各人の理性がその根底にある。だからこそ、偽りを良しとしないボクにとって、あくまで意思疎通が上手く図れなかったという事情を差し引いても、1つ、また1つと真実と異なる言葉を紡ぎ、ボクの人生を綻びのきっかけを作りだしたあの連中を許せないでいる。1つ嘘をつけば、それを隠すための嘘が必要になり、さらにもう1つ……と永遠に嘘をつき続ける羽目になる。

 本当に無様だと思う。だからこそ、善き理性に基づいて、言葉による正しい表現を常に心がけなくてはいけない。言葉による芸術を追求する文学者、精緻な理論を組み立てようとする哲学者こそ、ボクの模範にする対象であって、彼らに魅了されるのは全くもって自然なこと、むしろ必然であったとも言えよう。さらに、言葉による表現の源泉である意志が彼らを自殺を導く傾向にあるというのは、ボクにとってさながら憧れである。言葉による表現と彼らの生き様は切り離して取り扱えるようなものではなく、強固な意志で結びつけられているのだ。

 善き理性に基づいて、言葉による正しい表現を心がけよう。
そうなると、「自殺を望んでいる」という表現は正確とは言えない。正しくは、「現状を打破したい」というのが正しいのであって、自殺は単なる手段に過ぎない。常日頃から希死念慮を抱いてはいるが、心の底からそれを願っているわけではない。「ボクを救うのは唯一、自らの手で死を掴みとることである」という気持ち、「死んだら悩むことも無くて楽だろうな」という気持ち、「そんなこと言ったって、実行に移せる勇気もないヘタレなんだから死ねるはずないさ」という気持ち。それぞれ1/3ずつ。20数年生きてきた結果が全く生産性の無い社会の藻屑であることから、自らが存在するという状況に懐疑的かつ罪の意識もある。けれども、やはりその一方で依然として自らの生に対する期待と未練を抱いているから、こうして存在し続けるのだ。

 現状を変えたい。自殺という手段はやはり避けれるのなら避けたい。これが今現在の善き理性に基づく、言葉による正しい表現の答えだ。