高坂原論10

■生きる権利、死ぬ権利

 直治の遺書。

 姉さん。
 だめだ。さきに行くよ。
 僕(ぼく)は自分がなぜ生きていなければならないのか、それが全然わからないのです。
 生きていたい人だけは、生きるがよい。
 人間には生きる権利があると同様に、死ぬる権利もある筈です。
 僕のこんな考え方は、少しも新しいものでも何でも無く、こんな当り前の、それこそプリミチヴな事を、ひとはへんにこわがって、あからさまに口に出して言わないだけなんです。
 生きて行きたいひとは、どんな事をしても、必ず強く生き抜くべきであり、それは見事で、人間の栄冠とでもいうものも、きっとその辺にあるのでしょうが、しかし、死ぬことだって、罪では無いと思うんです。
 僕は、僕という草は、この世の空気と陽(ひ)の中に、生きにくいんです。生きて行くのに、どこか一つ欠けているんです。足りないんです。いままで、生きて来たのも、これでも、精一ぱいだったのです。
太宰治『斜陽』より

大学も休みに入ったのだが、野暮用で大学の学生支援課へ行ってきた。もっとも、学生よりも教員を擁護する立場なので教員擁護課とでも名乗ったほうがよいと思うのだが。

「あいつらを殺した後、ボクも飛び降りて死ぬ」と冗談めかして言ったら、相手はどうしようもない堅物頭の等辺木で、「人を殺してはいけないし、自殺をするのはいけない」とテンプレ通りの答えが返ってきた。どうも教員寄りの立場だし、たいした支援もしようとすらしないのだから、本当に給料泥棒楽な仕事だと思う。また殺意を抱く人間が一人増えた。

いくら気違い(自分で言うのは構わないのだが、他人に言われると腹が立つ)でもセラミックには明るくても人の心は理解できないクズ教授、検査入院で尿道カテーテルを入れられて「うほぉ、気持ちいいっ!」とのたまう下種な教授を殺してやりたいのは紛れもない事実だ。しかしながら、『斜陽』にもあるように「人間には生きる権利があるはず」なのだ。だから、気違いと自覚しているボクでさえその辺の思慮分別はつくからして、やつらを生かしているのだ。もっとも、殺す価値があるかは別問題なのだが。

30分ばかし話をしたN島はボクの自殺にさえ異議を唱えた。自らの命を、自らの意思で投げ打つという行為に誰の許可が必要なのか。神様か、仏さまか、それともN島自身か? N島が自殺を否定するのは構わない。それならば、自らの範囲で自殺を否定すればよいだけであって、それを「学生が死ぬのが悲しい」などと見え透いた嘘(どうせ面倒事に巻き込まれたくない一身の発言に過ぎないのだ こちとらそこまで人間性が歪んでいるんだぞ!)をつくからたちが悪い。

先日、祖父が亡くなった。末期は意識もはっきりとせず、胃痩で栄養を取っていた。チューブで身体を維持している祖父を眺めては、果たして「人間の生」に不可欠なものは何であろうか考えた。ボクが導き出した結論は「主体性」である。自らの主体性に基づいて死を成し遂げることができたならば、どんなに素晴らしい事だろうか。そして、その主体性は何人たりとも立ち入ることの出来ない、いわば聖域である。

死を忌み嫌い、生を手放しで受け入れる今の歪んだ生死観は、生と死が表裏一体の出来事でいずれ訪れる死を意識的に無視している不気味さにおぞましさすら感じる。

人間は生きる権利がある。そしてまた、死ぬ権利もあるのだ。それを忘れてはならない。