「考える力をつける哲学問題集」講読1

新宿の紀伊国屋高島屋のほう)をうろうろしてたら、70-000系E233系が並走していたのでふらふらと窓辺に引き寄せられたのです。その場所がちょうど哲学書のコーナーで、目に付いたのがこの本。本当はラッセル(だったと思う)が書いた哲学書にまず目が行ったのだが、得てしてこういうのは難解だろうからまたの機会に。

本書のさまざまな章は、哲学的に考えるための訓練コースとなるように作られている。それぞれの章では、さまざまな哲学の問いをとりあげながら、中心的な主張と議論を学べるようになっている。
(中略)
なによりも忘れてはならないのは、哲学とは一つの営みということだ。哲学の書物の最高の使い方は、批判的に読みながら、自分の頭で考えて、哲学という活動に実際に参加してみることだ。
(後略)
「本書の使い方」より抜粋

■第1章 宇宙はどこからはじまったか?(初級)

宇宙の究極の原因または起源は何かという問いについては、どうやら次の四つの答え方があるようだ。
 1.宇宙の原因を特定して、問いに答える
 2.宇宙には原因があるが、ぼくたちにはその原因がまだ分からないと答える。
 3.宇宙には原因はないと答える。それはだれもが認めるべき<生の事実>だと。
 4.その質問には意味がないと答える。

「宇宙が合理的な理由無しに始まったとは思えないが、そこに原理・原則を超越した神という存在を持ち出して説明することもナンセンス。神という例外規定が許されるなら、宇宙の起源だって例外規定として扱えるはずでしょ?」といった論調なのだが、そもそも人間は全ての事実を知りえるかどうかさえ疑わしい。科学の進歩は人間に叡智をもたらしたが、高度に発達した現代ですら宇宙の起源については仮説は唱えられても完全な説明ができないでいる。人間が全ての命題を解き明かすまでは仮説が覆される可能性は否めず(それこそ天動説と地動説の関係だったように)、永久に仮説のまま。個人的な立場とすれば2に最も近いのだけど、「宇宙の起源」について考える余裕が無くてどちらかというと「自らの生の起源」についてのほうが興味があるボクは4のスタンスも含んでいるのだろうね。

■第2章 とりはずされた脳の冒険(初級)

懐疑的な議論では、ぼくたちは周囲の世界について、いかなる知識ももっていないと主張する。この議論では、家、家族、仕事場、地球そのものがヴァーチャルなものではなく、すべて現実だと信じる理由はないと主張する。だれもが、水槽の中の脳として生きているのであり、ザパプラフトのVE4コンピュータのいいなりになっていると言い張るのである。

ボクという存在は本当に「連続存在」であろうか。例えば、今朝起きてから今までの記憶は真なるものとしても、昨日以前の記憶は何者かが‘そうあったもの’として脳の記憶を改竄していて2013年12月31日という瞬間だけに存在している「不連続存在」だとしたら? 「そんなバカげたこと、あるわけないじゃん!」と思いながらも、この記憶が何者かによって見せられている覚めない悪夢だったらよいのになぁと密かに思っていたりする。記憶力の良さがボクの唯一の取り柄だと思っているのだけど、それすらそれなりの量の薬で吹っ飛んでしまうものだから、乱暴な言い方をすれば案外記憶なんていい加減なもので。
悪夢にうなされながら、ボクはこの現実がどうか悪夢であるようにと祈っている、そんな矛盾した日常なのです。