高坂原論12

■幸せについて

 断片的にだけど、幸せの根源と時間という概念が結びついているのではないかと思った。

美味しいものを食べる→幸せ
心地よい音楽を聴く→幸せ
お気に入りの本を読む→幸せ
好きな人の隣にいる→幸せ

 とどのつまり、「幸せ」と思わせる根源的な何かは時間的な概念を有していて、ボクらはそれを手に入れられている間、「幸せ」だと思っているに過ぎないのだ。食事も、音楽も、本も、好きな人もいずれは無くなってしまう(もしくは新鮮味が薄れてしまう)。もちろん、日常のありがたさを否定するものではないが。

 寺山修司の本に「幸せとは『幸せとは何か』ということについて考えることである」といった一節(さっき確認したのだが、見つけられなかった)はまさしく的を得ているように思う。「幸せ」の探求もやはり時間的な概念に含まれる。

 ボクが疑問に思うのは、生という有限性の中に果たして真なる幸福が存在するか、という点である。ボクが「幸せ」についてあれこれ考えて、ある一定の結論に至ったとしても、それはボクの身体的(あるいは精神的)な消滅によってもろとも消えさってしまう。もっとも一部の文豪なり哲学家のように作品として残すことは可能であるが。ボクの存在が有限である限り、「生=幸せ」とする世の中の思い込みは簡単に論破できる。「いつか訪れる死を免れないならば、それは本当の幸せとは言えないじゃないですか」、と。

 ただし、人間にとって幸せが本物か偽者かどうかはあまり重要ではないのかもしれない。要は、自分が幸せであると思い込みさえすれば良いのだ。気の合う友人と杯を交わし、下らない話で盛り上がる。徐々に気が大きくなり、思考のギアが前向きに入れられ、全てが上手くいくような予感は実に心地よい。
 9月の末にODをして親がすっ飛んできたのだが、かくかくしかじかあって、完全に薬が抜け切っていない状態で洒落た飲み屋に入った際、ボクは「いかに自殺が素晴らしいか」について滔々と語ったらしい。薬とお酒でまったく覚えていないのだが、それくらい興奮した状態になって初めて自殺の実行可能性が出てくるのだと思う。平素は理性の保安装置がかなり強力にそれを阻害するのだ。
 こほん、話が逸れた。さて、二日酔いにならない限り(あれは生き地獄だと思う)、時間が経つにつれてアルコールが分解され、現実へと連れ戻される。時間が支配するこの世界は残酷で無慈悲すぎる。

 時間という概念を超越したところに、真なる幸福が無限に広がっている。時の見えぬ壁に囲まれた中でボクはどうにか抜け出せないものかと、密かに画策しているのだ。