高坂原論13

■世界の主体
今朝方、電話口で気違い認定された時点から薬を入れたがってたわけですが。排水溝が詰まり、ラバーカップを買いに出かけながらいっそのこと明日のことを一切考えずに、ODでもして目先の快楽に溺れる誘惑に駆られ。けれども、それを振り切って夜まで過ごしたけども、ちょっとだけならと思い1錠だけ。

今まで真面目ちゃんで過ごしてきたせいか、融通が利かない方だと自覚はしている。どちらかといえばわがままなほう。なので、自分がこうと決めたら誰がなんと言おうが(と言いつつ、影響は受けやすいのだけども)譲らないのだ。

20数年生きてきて、やはり自分のことは自分が一番知っていると思う。自分の欲望は自分を最も主観的に、自分の理性は自分を最も客観的に。「他人から見るから‘客観的’なのだ」と反論されそうだけども、他人の客観視には他人の主観が絶えず紛れ込んでいる。それゆえ、自分の精神を理性と欲望に分割したうちの理性は、時に肯定的に、またある時は批判的に自分を捉えているのは人間の良心によるものだろう。

そこまで授業に固執しなくてもとは思う。毎回出なくたって、単位が取れればそれでいいじゃない。むしろそっちのほうが要領は良いと思う。それが正しいかどうかは別として。別に明日授業をサボったって授業は成立するし、なんならボクが存在しなくなったってこの世界は成立するのだろう。ボクという存在はこの世界の主体にはなりえない。では何がこの世界の主体だろうか。

それこそ、宇宙の起源を巡る議論になるわけだけども、何の因果もなくこの世界(ちっぽけなボクという存在も含めて)が存在するわけじゃないだろうし、けれども神様という神秘的な概念を持ち出すのもちょっと。いや、いたら楽しいとは思うけれども。

自分でも支離滅裂な文章を書いていることくらい分かっている。世界の主体が何たるかを突き止めることが出来ないとしても、その営みの過程を残そうとするのはボクの欲望によるものなのか、理性によるものなのか、はたまた神様の意思なのか。