高坂言論16

■存在の規定因
 ボクらの存在を規定するものを突き詰めていくと「言葉と正義」なのだと思う。感情や思考といった内面を具現化する最も有効な手段としての言葉は、言い換えれば言葉によって表現できないものは具現化できないということ。また、言葉というものの性質を正確に理解していないとその言葉は偽りとなり欺きとなる。それくらい言葉というものは慎重に使わなければならないと、ボクは思うのだけど。少なくとも、「悪意に基づく嘘つき」よりも「悪意なき嘘つき」のほうが、「悪意に基づく言葉の攻撃」よりも「悪意のなき言葉の攻撃」のほうが、ずっとずっとタチが悪い。

「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」

というウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」のこの一節にボクの言わんとする何かが凝縮していると思うのだけど、この話の続きはこの前買った解説書を読んでからにしよう。

 もう一つの正義についてだけど、すべての行為、もちろん言葉を紡ぐという行為も含めて、それを規定しているのは正義(良心や道徳とも言ってもよいのだけど)に他ならない。行為の源泉となる思考や感情は時として法に反する衝動を生むが、それを抑え込んでいるのは自らの正義に他ならない。もっともボクは法というものに懐疑的だけど、法というもっとも強い規範が社会の安定化に寄与していることまでは否定するつもりもない。
 法によって規定されていない行為、例えば自殺を考えた時に、自己本位的またはアノミー的自殺の実行においては自身の正義(最近はむしろある種の美学のようにも思えてきたのだけど)が重要な役割を果たす。もちろん、自らの正義の適応範囲は自身のみに留めるべきであって、それを他人にまで拡張した場合に正義間の対立が生じるわけで。浅い理解で自殺を肯定するボクの死生観を、上から目線で否定するどうしようもない人間が多いことに幻滅するとともに、血の気の多いボクからしてみればもはや戦争である。どうせ自殺するのならば、「そいつらを粛清してから...」と思うこともあったのだけど、ボクは彼らとは違って、彼らの生きる権利(当然ボクの死ぬ権利もあって然るべき)を侵害するほど愚かではないので、実行には移しませんが。

 結局、恨み辛みになってしまうのだが、「言葉と正義」に対する認識が歪みに歪んだ結果、かえって素直になってるような気もしなくはない。