#6
■「自殺について」講読(5)
◆生きようとする意志の肯定と否定とに関する説
意欲すること!なんて広大な言葉ではないか!(p78)
- 理性はわたしたちが選択した目標へ向けてみずから備え付けた道標に過ぎない
- その道標を天国へ向けるか、地獄へ向けるかはその人次第
わたしたちが経験的意識の立場にとどまっているかぎり、わたしたちは、あの―よりよい超絶的―意識から、なんらの慰藉をも得ることはできない(p79~)
- 超絶的意識がわたしたちを見棄てて、経験的意識のうえに置き去りにするのは当然のことである
- 超絶的意識に達するためには自己を滅却すること(=経験的意識からの解脱)が必要になる
生殖の後に、生が続き、生の後には、死が必ずついてくる(p81~)
- 或る個人(父)が享受した生殖の淫乱は彼自身が贖いきれず、別の或る個人(子)の生涯と死を以て贖われる
- わたしたち自身の生は、わたしたちみずからが死によって贖う
- 自乗した強さの生存意欲である生殖は、或る異なった個人の生と死によって贖わなければならない
すべての説明は、その限界に存在するひとつの資料で立ちどまるよりほかはない(p83~)
- より良い超絶的意識への移ろいを実現するためには、客観のあらゆる種類が綜合する点すなわち主観から始めるのが最良である
- 完全な哲学者:より良い超絶的意識を経験的意識から厳密且つ全的に区別し表現する
- 聖者:より良い超絶的意識を実践躬行する
「汝らは、道徳的良心に対して満足を与えるほどの行為はできないだろうから、せめても、論理的・知性的良心に恥じないだけに行いを慎しみ、決して真理に逆らうようなことはするな」(p89~)
- 死は、それがひとつの悩みであるかぎり、解脱へ導くよすがとなるが、解脱そのものではない
- みずからの意志のみは、わたしたちを救いもし、罰にわたすこともできる
- 意志とそれがもたらす報いこそ、生命である
性慾を満足させることは、とりもなおさず、最も強く生を肯定することになるのだから、そのことだけとしても必ず忌避しなければならない(p90~)
- 両性の交わりは外部からの動因に昴奮させられたものであるが、手淫は認識の現れない単なる肉体に対する肯定に過ぎない
完璧な聖者にあってのみ、単に悩みを眺めただけで、解脱の境に達しえるのであり、凡人たちは、必ず自分で悩みを体験しなければならない(p92~)
- 天才には寂寥の孤独という免れざる悩みがつきまとう
- そのような悩みこそ、天才をして、生きようとする意志を破棄し、かかる荒涼とした知己の得られぬ世界を断念させる因となる
個体の死滅と種族の保持とは、必須的な相関補足で、死があるから繁殖の必要が生ずるのだし、繁殖が無ければ死は無くともよいのであろう(p93)
恋愛の幻影も、またこれと同様で、遠くから望みをかけ、未来に願いを懐いているうちは、歓喜の楽園とも見えるが、ひとたび、通り過ぎてから、ふりかえって後の方から見直すと、嘔気を催すほどではなくとも、ごく価値の少ない・ほとんどなんらの意義をももたぬくらいのものだということがわかってくる(p104)