#9
■「自殺について」講読(8)
◆この世の悩みに関する説によせる補遺
わたしたちの生は、苦悩を、最も身近な直接の目的としている(p159~)
- ひとつひとつの特別な不幸はすべて例外と見えもしようが、じつは、一般に、不幸があたりまえのことなのである
- わたしたちの意志に逆らったり、妨げとなったりする事物を、わたしたちは不愉快または苦痛として甘受する
- 安楽と幸福は消極的なものだが、苦痛は積極的なものである
- ごく小さな箇所の痛みだけを感ずるように、みずからを痛感させるようしむける
- 喜びは期待よりも遥かに小さいが、それにひきかえ、苦痛は予想よりも遥かに大きい
もっとも効果のある慰めは、自分と比べてみて、さらに不幸な他の人々の身の上を、見視めることである(p161~)
- この見地から人間全体について考えてみると、その結果はどんなことになるか?
- 歴史は、わたしたちに、諸民族の興亡とか、数多い戦争と暴動とかを物語るばかりである
- 平和な歳月は、偶然に恵まれた短い歴史の休止期、いわば幕間狂言に過ぎない
- 個々の人々の生活も、絶え間のない戦いである
- 人は、いたるところに敵をもち、不断の戦いの内に生き、そして、最後まで武器を手に持ったまま、死んでゆくのである
時間にせき立てられないという特権をもつ者は、ただ、退屈という―もひとつの―苦しみの手に引き渡されてしまった人々ばかりである(p162~)
- 窮迫、難渋、さまざまな努力の祖語や失敗などの重圧から解き放たれたら、人間はどうなるであろうか?
- 人間の我儘が伸びあがり、破裂するに至らないまでも取り留めがつかない愚劣さを露呈するのではないか
- 人はみな、いつでも、或る程度の心配や苦痛、窮迫などが必要である(船の底荷のように)
人間の意識は、全生涯を包容するばかりでなく、遥かにこれを超える視野圏をもっている(p169~)
- 植物は単なる生そのものによって満足させられている
- 動物は苦悩は少ないが喜びもまた少ない
- 動植物は肉体化された現在だけを直観的に認識している
- 人間は希望と予測との喜びを前もって楽しむことができる一方で、災厄の予見により実際よりも大きい苦痛を感じることがある
- 人間の高められた認識能力は、人間の生活を動物のそれと比べて遥かに苦痛の多いものにする
- 認識それ自身が苦痛の原因ではなく、意志の抑圧が苦痛を惹きおこす
年頃の若者たちは、ちょうど、罪なくして―死の宣告ではなしに―生の宣告を受け、しかも自分たちに宣告された刑の内容を少しも知らない囚人のように思われる(p175~)
- 知らないということは一種の幸福である
- 高齢というものの意味する状態
- 「今日は、よくない、さて、これから一日ごとに、いよいよ悪くなってゆく、―最も悪いことがやってくるまで」
この世はまさしく地獄であり、その中で、人間は一面では呵責を受ける亡者となっており、他面では呵責を与える悪鬼になっている(p179~)
- 子を産ませるという動作の意味
- 生理的欲求や快楽を伴わず、純粋に理性的な熟慮を要すべき問題であったとしたら、人類はなお存続するか?
- すべての人が、生まれてくるであろう子女に生存の重荷をむしろ負わせまいとする、ということはないであろう
- その重荷を冷酷にも負わせることを、わが身にひきくらべて、考えても見ずにすませられようか?
わたしたちは、自分たちの生まれたことを先ず第一に、生きることにより、そして、第二には、死ぬことによって、贖罪するのである(p190)