高坂原論21

■言葉の指向性
つぶやきとは本来、指向性を持たないもののように思う。この前、銀行で何やらぶつぶつ独り言をつぶやく人と居合わせた。率直に言えば多少気味が悪かったが、誰に話しかけるでもなく、自身の内面から指向性を持たない言葉となって零れるもの、それがつぶやき。

twitterでツイートすることもまたつぶやきというが、不特定多数のフォロワーのタイムラインに自分のつぶやきが拡散する時点でもはやそのつぶやきは一定の指向性を有してしまっており、元来のつぶやきとは似て非なるもののように感じる。

行為において「相手に対する自分の気遣い=自分が相手に欲求していること」という表裏一体の関係が成り立つと考えているのだが、人様のタイムラインに自分のつぶやきが漂流することはお目汚しのように思えてしまう。なのでわざわざ隔離用のアカウントを用意したのだけど。本来なら隔離用のほうは鍵付きにしたいのだけど、そうするとブログと連動できなくなるので仕方なく鍵は付けていないが。

もちろん、フォロー・フォロワーのつながりで意図的に指向性を加えたつぶやきをリプライとして投げることもあるし、ボク宛に飛んでくることもある。ただ、気難しい性格なので放っておいて欲しいときもあるので難しいところだが。

自分以外には価値を有さないつぶやきを、極力指向性を持たせないようにつなぎとめておくツールとしてtwitterを使っているので、コミュニケーションツールとして捉えている人とのズレが時折感じる不快感の原因なのだと思った。本当ならば、他人を受け入れる寛容さを涵養(ダジャレに非ず)するべきなのだろうが、今更そんな伸びしろもないので、自分も他人も不愉快にならないよう、気分によってオープンなアカウントとクローズのアカウントを使い分けて行くのが現時点では最良だという結論に至った。

隔離用のアカウントでつぶやいている時はは放っておいて欲しい時だと解釈してもらって構いませんので。