「本当にわかる哲学」講読1
「哲学する」というレベルには未だ達していないので、ひよっこのうちは舌足らずに「てちゅがくする」と称することにします。
帰省に際して、良さげな哲学の入門書(哲学分野は名前だけの入門書が多いので困るのだけど)を持ってきたので、自分なりに重要だと思ったポイントを記録しながら、自分の思想を深化・涵養させていこうという試み。そうでもしないと読む機会なく、単なる荷物になってしまうのでね。山竹伸二著の「本当にわかる哲学」という本で、哲学の全体像をまず掴んでいければ。
◆第1章 哲学とはなにか?
○哲学はなにを問うのか?
- 古来、物語によって世界を説明しようとしてきた宗教と近代以降、客観的な説実験・観察を通じて世界を説明しようとするは科学は対立しやすい
- 生の意味、自分の存在価値のような主観的な問題について科学は排除してきた
- 哲学は開かれた言葉のゲームである
- 哲学は意味と価値の問題を取り扱うという点で宗教と、普遍的理解を求めるという点で科学と一定の互換性を有している
- 時代における哲学の主要なテーマの変遷
古代ギリシア哲学 | 「世界はどのように存在しているのか」 |
近代哲学 | 「<ありのままの世界>は認識できるのか」 |
現代思想 | 「真理はあるのか」、「私/社会とはなにか」 |
○哲学の主要な問い
- 「世界はどのように存在しているのか」という問いは純粋な知的好奇心から生じた問いと捉えることもできる
- 宗教は神話を通じて「世界とはなにか」という問いに対して答えを提示することを通して、人々の存在価値=「生きる意味」というものを規定してきた
- 宗教ごとに、<世界の定義>は異なる→宗教間の対立をもたらした
- 自然科学の発展により「世界はどのように存在しているのか」という問題は科学によって担われ、哲学は「世界は認識できるのか」という認識論へ舵を切っていく
- 近代哲学の「意識=主観に現れた対象」という思想を受け継いだのが現象学
- 「私とはなにか」という問いと「社会とはなにか」という問いは密接に関連している
- 近代以前の宗教的社会では「自由」という概念がなく、私ないしは社会というものを問う必要性が無かった
- 近代以降、「自分は何者なのか」という問いと実存主義の誕生
- 社会に対する問題意識→近代以降、自由の意識と従来の抑圧的な価値観や規範に対する反発
○哲学の思考法
- レトリカルな問い→パラドクスを含む思考実験
- 現実的な問題とは無関係
- 究極の問い→哲学史上重要な難問
- 答えは存在しない(カントによる証明:二律背反)
- 本質の問い→共通了解が可能な意味を問う
- 本来の哲学的な問題
- 哲学は真理を求める学問ではなく、普遍性を求める学問である
- 他者との共通了解しえる本質の探究
- 例)「自由」、「幸福」、「不安」、「社会」……
- 「哲学する」ということ=哲学者たちの考え方を基盤にして、自らの力で考え、先入観にとらわれず一から吟味しなおすこと
●高坂あかなのまとめ
近代以降、急速に発展した自然科学は「主観的なもの」を排除してきた結果である。しかしながら、私たちは「存在意義」のような極めて主観的な問いを内包している存在であり、その問いに答えるべきものは諸学問の中で主観的な価値判断を唯一対象としている哲学に他ならない。
しかしながら、哲学というものは絶対的な真理を示すものではなく、あくまで社会に普遍性をもたらす本質を求める学問である。ゆえに、先人たちのさまざまな思想に触れながら、自らの思想を自らの言葉で具現化するということが重要であるとともに、異なる思想を受容する柔軟さが必要なのではないか?