「本当にわかる哲学」講読7(終)
◆第6章 社会とはなにか?
○社会はみんなの約束で作られた?
- 近代社会というシステム
→絶対的な主権者の存在と法的な制約を以て国家と社会秩序の安定を図る(社会契約説)
- ロック:「市民政府論」
- 17C末、市民革命が終焉すると絶対的な権力者が必要なくなる
- 市民すべてが対等な主権者で、法も政府も人々の議論で決定する(民主主義)
- 私的所有の原理
- ルソー:「社会契約論」
- 法や権利の正しさは人々の合意(社会契約)によって作られた
- 「一般意思」:誰もがそれを望んでいること
- 各人が目指すべき判断の基準=「一般意思」
○近代国家のゆくえ
→相互に存在価値を認め合う共同体という基盤を通じて個人の自由への欲望は充足される
- マルクス:「資本論」
- 個人の自由を平等に保証するという建前で国家は階級支配を正当化している
- 資本主義というシステムそのものに貧富の格差を生み出す原理がある
- 私的所有の廃止による国家の廃絶と、共産主義社会の確立を目指す
→マルクス主義を基盤とする共産主義国家は「平等」を重視するあまり、近代社会が達成してきた「自由」の理念をないがしろにしてきた
○私を抑圧する社会の構造
- フーコー:「言葉と物」、「監獄の誕生」
- 各時代における個人の考え方や行為は社会構造におけるエピステーメ(その時代特有の血の枠組み)によって規定されている
- 近代社会は自己監視の強化された社会である
→権力が見えない形で個人の内面まで浸透している
- ポスト構造主義の展開
○他者と向き合う「私」
- ハーバーマス:コミュニケーション的理性
- 2つの理性
- 道具的理性:合理性・効率性の追求→×
- コミュニケーション的理性:他者との共通了解を追求→○
- レヴィナス:他者論
- 他者が「私」の構築した像に過ぎないとすれば、他者性を無視したエゴイズムに陥りかねない
→意識に現れる他者:同一化しえない「他なるもの」
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- 非対称性(他者性)に基づく倫理:慈愛
- 対等性に基づく倫理:正義
→公平な正義よりも慈愛が優先される
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- 正義の根拠:他者への配慮(慈愛)
- アレント:公的領域
- 古代ギリシアの営み:私的領域(労働/仕事)と公的領域(活動)
- 現代の営み:労働のみ→自由な言論空間の消失
- 自由な言論空間において、各人はできるだけ普遍性のある判断を心がけるべきである
- 利己的な独断を排した中立的な立場に身を置くための動機はどこにあるのか?
○社会の正義を考える
- ロールズ:「正義論」
- 他者の自由と両立する限りで自由は認められる
- 機会均等のもとで格差が生じた場合は是正
- 無知のベールのもとでルールについて議論
→自由を確保するためのルールのみが必要で国家のルールは最小限に留めるべき(「最小国家論」)
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- 個人の自由は社会の中で‘制度的に保証される’ことで初めてなりたつ
→「出発点における不平等を是正することは、個人の自由を侵害することはない」という反論
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- コミュニタリニズム(共同体の中で培われる価値観を重視)
- 共同体との関係をもとに、道徳や善を追求すべき
- 人間のアイデンティティは他者との関係性、共通の価値に関与している
- 倫理的行為の動機(欲望)という問題への回帰
○私にとって社会は必要か?
- 倫理的行為の動機
- 弱者を救済する道徳的な行為の普遍性を模索するもの
- 誰しも弱者を助けようとする動機を持っているとは限らない
- 「弱者は救済せねばならない」という社会の要請と個人の自由は対立するか?
- 自由:「拘束からの解放」と「自己決定による納得」を本質として持つ
→個人の十分な納得が伴っていれば、そこに自由は存在する
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- 人々が自由を求めるがゆえに社会を必要としている
- 承認と自由
- 私たちは自らの意志に基づき、他者の承認を介して価値の普遍性を求める=自己の存在価値に普遍性を求める
- 社会のなかでこそ、自由への欲望が自己の存在価値への確信へとつながる
- ‘偽善’:「社会」と「私」が調和する原理とも言える
- アイデンティティの不安の根底:「個人の自由」と「社会の承認」の葛藤
→自己を過渡に抑制あるいは他者の承認を放棄し自分の自由を確保しようとする動き
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- 自身への欲求の欲望を自覚することで、周囲や社会の要請・期待に応えることにも「承認を得るため」という納得が生じる→自由と承認の葛藤の回避
- 「私」の実存的な問題は他者の承認とは切り離せず、ひいては「社会」の倫理的な問題とも結びついている
●高坂あかなのまとめ
民主主義と資本主義によって、大きな社会変動がもたらされた。国家と社会秩序の安定を図るために、「社会契約」という概念が作られた。とりわけ、ルソーは法や権利の正しさにおける人々の合意を「社会契約」と呼び、人々は「一般意思」に基づいて判断すべきと考えた。
ヘーゲルは社会(市民社会)における制度化された自由の相互承認を指摘し、その市民社会という共同体の基盤によって個人の自由は充足されるとした。その一方で、マルクスは自由主義・資本主義そのものが格差の原因であるとし、絶対的に正しい社会構造としての共産主義社会の実現を訴えた。
ポスト構造主義は「無意識の社会構造」によって各人の考え方や行為が規定されていると指摘する。相対主義による自由の確保を目指す反面、「自由」という概念や「自己の存在価値の基盤」といった点で課題が残る。
社会は無数の他者によって構築される以上、他者と向き合わずに生きることは不可能である。そうした中で、他者との関係性が問題となるが、ハーバーマスは他者との共通了解を重視し、レヴィナスは慈愛と正義に着目した。
「私」と「社会」という問題が行き着くのは「正義」という領域である。ロールズの正義論以降、リバタリアニズムとコミュニタアリズムという2つの考え方が出てきた。いずれの考え方にしても、「倫理的行為の動機(欲望)」という点に議論は収束する。
他者からの承認によって、私たちの存在価値は普遍性を得る。個人の自由と社会の要請は対立するものではなく、個人の承認要求に基づき社会の要請に応えるといった図式にすることで、両者の葛藤を防ぐことが可能となる。自由というのは「拘束からの解放」のみならず「自己決定による納得」という本質も持ち合わせているのだ。