12月の断片的思想まとめ
Twitterの本アカウントに散らばった断片化した思想をまとめてみようという試み。まずは12月分から。
ボクが探し求めているものは、言葉と認識の壁を乗り越えた先にあるのだろう。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 4
木田元氏が「哲学なんかと関係のない、健康な人生を送る方がいいですね」と言っていたけど、その通りだと思う。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 6
でも、まぁ「てちゅがく」として趣味の範囲に留めておくくらいがちょうど良いのではないのでしょうか? pic.twitter.com/YWZq5F61GN
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 6
フロイト曰く「人間には生の欲動であるエロスと死の欲動であるタナトスという2つの基本的な力が働いていて」、それらが相克し合う結果として存在しているのだから、自らの死を望むことは何ら異常なことではなく、むしろ極めて正常と言えましょう(きっぱり)
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 11
哲学は実践しなきゃ、意味がないんだよ。ただただ小難しい文献をなぞるのは哲学じゃなくて、単なる古典に過ぎないんだよ。そこを勘違いしちゃダメだよ。(自分に対する戒め)
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 11
「死にたい」という表現は無意識的に不可避かつ確実に起きうる「死」というものを認識しながらも、まだ時間的な猶予があると思い込んでいるからこそ出てくるのであって、その「自分には余裕がある」という確証は一体何を根拠としたものなのでしょうか? 生きとし生けるもの、死は常に隣り合わせ。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 12
なので「死にたい」という表現は語彙力の浅さを露呈しているようで、個人的にあんまり好きじゃないのです。生と死の葛藤を的確に捉えている表現がきっとあるに違いないのです。今、置かれている環境を変えるということであれば、「死」という選択肢を第一に持ってくる必要性がありませんからね。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 12
現時点で強いて上げるならば、「今の生活世界には居場所がない」というのが一番適切な表現でしょうか。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 12
「死にたい」と思うのは、時間的な自己の存在可能性を感じているからに他ならない。「死」という概念は他人を通じた経験で得られるものであって、自ら意識を持って体験することが出来ないからこそ、ある種の憧れを抱くのだろうね。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 12月 13