10月(前半)の断片的思想まとめ
10月はちょっと多かったので2分割。今日はここまで。
お酒や精神安定剤と一緒で、幸福もまたほどほどにしておかないと幸福中毒になってしまう。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 1
自分を取り巻く外界は絶えず変化し、そこに自己存在を見出そうとすることはあまりにも無意味ではなかろうか? 自己存在を形作る唯一にして最良の方法は確固たる核や軸を自分の中に有することである。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 2
人が世界に産み落とされて死んでゆくという一連のプロセスは、一個人で超越できないものと捉えるならば運命と見なせないわけではない。ただ、その始点と終点が時間軸上にきっちりと置かれ、なおかつ2点間の振る舞いまでも規定されているとはとてもじゃないが思えない。そこまで神様も暇じゃなかろう。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 3
全存在は永続的に存在しうることは不可能であるがゆえに、その存在が消滅するということもまた存在価値の一部として内包されているのではないか?
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 4
自分の軸や核というものを明確に自覚出来ていない時点で、ボクという存在には連続性が備わっていない。それゆえに、昨日のボクと今日のボク、明日のボクは酷似した全くの別人であって、不連続存在と言うのが相応しい。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 4
心の二面性は地軸と同じように、人間としての軸は傾きを有しているということで説明ができるのではないか。それゆえに光と闇のどちらかだけを受け入れることは出来ない。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 4
「不満足」や「不幸」を感じること自体がある意味で恵まれたことなのかもしれない。なぜならば、その対極の状況を知っていなければ、このような概念に至るはずがないのだから。デカルトの「神の存在証明」的な。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 5
「幸せ」というものは、実体として存在しているようなものではなく、「幸せとは何か?」と思いを巡らせている状態のことを指すのかもしれないですね。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 5
人間の根元的な営みは「知る」ということだ。この世界の真理を、社会と自分の接点を、心奪う異性の内面を。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 5
存在意義の問いを放棄して無条件に自己存在を受け入れるのは、果たして「生きている」と言えるのだろうか? ボクは違うと思う。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 5
若さは罪であるとともに免罪符でもある。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 5
全てに終わりがあるから救われるのであって、無限に続くのであればそれは生き地獄に等しい。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 5
己の死は、自分にとって都合の良い点ばかりを集めて構築された一つの世界の破滅に過ぎない。むしろ、死すら自分にとって都合の良いことと捉えていることから、人間の認識がいかにいい加減で色眼鏡を掛けたものか、よく分るだろう。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 8
現存在における最高次の欲求である生を、何ら不自由を感じない当然のものとして捉えているから生に次いで高い死の要求が生まれるのではないか?
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 8
死への欲求でさえ、虚無感の前では何ら意味をなさない。「何の意味があって生きている?」ということは「何の意味があって死にゆく?」と本質的に等しい。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 9
生きる意味もないが、死ぬ意味もない。それゆえに現状維持。ボクは虚無感によって生かされているといっても過言ではない。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 10
波打ち際で海と空を眺めているかのように、ぼんやりと将来を見据えるボクには水平線より上が希望で下が絶望、と両者は容易に線引きできるようなものではないと思われるのです。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 10
人は存在しないと分かっていても自然を超越した力(それを運命や神と呼ぶのでしょう)を、きっと心のどこかで信じているのではないのだろうか? デカルトもカントも神という概念を完全に否定しなかったことから(この辺りはまだ知識が不十分)も、哲学者である以前に一人の人間だったのだなと思う。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 10
生と死の引力が均衡している地点こそ虚無感。生を肯定することも、死を否定することもしない。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 11
生は意志の関与が不可能なもの(その起源には自らの意志は介入しえない)と思っていたが、対極にある死は多少意志の関与が可能であって、そこを突破口に生と己の意志を接合するということは不可能ではないように思われる。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 11
自らの思想を自らの言葉で語ること。それが‘てちゅがく’なのです。それを繰り返すことが、素晴らしき日々への近道なのです。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 11
常にどんよりとした虚無感に心が覆われてなければ現状を維持できない。虚無感の勢力が弱まって希死念慮になると生と死の均衡が崩れるから厄介なことになる。死の側に傾き始めたらアルプラゾラム連投で生の側へと引き戻して、虚無感の領域内に心を留めておかなければならない。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 13
「虚無感を抱く」という行為自体に意味を見出してしまっている時点で孕んでしまっている矛盾さえ愛おしい。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 14
学問が学問たる所以が論理であるならば、認識によってあるいは言語によって規定される世界と自己存在の‘つながり’を論理づけする営みが「生きる」ということなのではないか。何一つ疑わずにそれを受け入れるのは動物のすることであって人間のすることではない。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 14
「難しく考えすぎ」と言われるけど、ボクからしてみたらこの態度こそ普通だし、そういう指摘をする方こそ「もう少し真面目に考えたほうが良いのでは」と口には出さないものの、心の中で反論している。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 14
手段と目的を明確に区分しておかないと取り返しのつかないことになる。今、ボクが哲学に傾倒しているのは哲学を極めるのが目的なのではなくて、それをもとに自分の軸や核というものを確固たるものにするための手段に過ぎない。そのあとは、趣味程度に続けるくらいがちょうど良いような気がした。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 15
「幸福」というものは、結局のところ人生のリトマス試験紙のようなものなんだと思う。鋭敏に感じる時もあるし、反応しない時もある。どちらが良いというわけでもなく。ちなみに指示薬はフェノールフタレインが好き。アンモニアの噴水実験、あれは素晴らしい。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 15