10月(後半)の断片的思想まとめ
新しく見つけたお気に入りの音楽が加わるだけで、いつもの毎日が色彩やかに映るのならば、それこそ好きなだと思える存在と出会えたら今の世界は滅んでしまうことでしょうね。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 18
本来、人生は色彩に満ち溢れていなければならないのです。そして、豊かな表現で描かれなくてはならないのです。 pic.twitter.com/IZVsb3N5kf
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 18
「死にたい」という言い回しは、意識的ないしは無意識的に当面の間は自己存在が継続可能性を有していることの認識を証明していることに他ならない。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 18
Hello world! pic.twitter.com/wCpfZ3Xf5W
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 19
お気に入りの音楽と綺麗な朝焼けでちょっと気分が高揚したので、いま逝けたら幸せかなぁとか思いつつ、銀河鉄道ではなく小田急線乗り場に向かったのでした。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 19
「不幸だ」とか「死にたい」とか思えること自体、まだ「幸せ」な状態に属していると言えるのではないか。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 19
2つ以上の存在が空間的・時間的重なりを有している状態がシンクロニシティであると言うならば、果たしてボクという存在においてシンクロニシティを成立させている対存在は一体何なのか? そんな存在と出逢う日を、ボクは待ちわびている。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 19
だらだらと小雨が続くような天気は好きじゃないけど、ささやかな陰鬱さと虚無感が支配する日常は嫌いじゃない。陰鬱の風と虚無の雫を頬で感じるのも乙なもの。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 22
「死」についても似たようなことが言えて、ボクらが「死」と認識しているのはあくまで他者の経験を通じてであって、自らの「死」を意識することができて初めて「死」というものが分かるのではないのかと思う。それが可能かどうかは別として。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 24
表意作用と直観作用の一致が正しい認識をもたらすのならば、意識的に経験しえない「死」だけでなく、現在進行形で完遂されていない「生」もまた不完全な認識に他ならない。「存在する」ということは一体何を意味しているのか、そこが思考の出発点のように思われる。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 25
近代以降の自由の獲得はアイデンティティの危機をも生み出した。生命倫理の誕生や医療技術の進歩(とりわけ生殖分野)はかつて‘大きな力’が支配していた「生と死」の領域に個人の意思が介入できる多少の余地をもたらした。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 25
個人をこの世界に産み落とされた自由落下する1つの物体と見なせば、当然F=maという式が成り立つだろう。それゆえに、各人はその運動をなるべく永続的かつ力を最大化しようとする。この本能的な作用が生の本質なのだろう。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 25
個人の内面にある思想を具現化する作業が芸術であり文学であり哲学であり。とりわけ哲学が難解なのは思想の密度が桁違いに大きいことに起因するように思われる。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 25
薄々感づいてはいたけど、生の目的を問うことはあまりにも不毛な行為だ。この世界に産み落とされたという現象においては自らの意志が介在していないのだから。それゆえに、どう生きるかという手段こそ真に問わなければならないことのように思うのだ。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 26
生の苦しみは、生まれたときのほんのわずかな苦しみが残響して時間と共に増幅してゆくようなもの。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 26
他人に期待して裏切られるより、自分で自分を裏切った方がずっとマシ。他人なんかに期待するのも、自分にも期待するのも、そろそろ止めにしませんか?
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 26
物自体から発せられるシグナルを感性で捉えて、悟性を通じて理性が現象として認識する。今ボクが見ている世界はまさしく精緻なCGのようなもので、所謂「水槽の中で電極が繋がれた脳みそ」状態なのではないかと思うと急に怖くなった1限の哲学の授業。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 27
ただ、アイデンティティも「海と一粒の水分子」のような関係だと思うので、少なからず他者との差異がボクという個人を規定する要因であり、ボクという存在もまた他人にアイデンティティを与える一因であって。いわゆる構造−代理人関係ですね。
— 高坂あかな@ちんちくりん (@takasaka_akana) 2014, 10月 29