「唯心論と唯物論」講読6

◆六 必然性と責任(前半)

  • 「私は欲する」という命題
    • 自我と同様に意志は何者からも規定されないものである
    • 現実的な意志は単に或る規定された存在者の意志に過ぎない
    • ex)書店において各人の好みに応じて1冊本を選ばせる例え
      • ある者は小説を、またある者は旅行記を、さらに別のものは哲学書を欲する
    • 各人は自分の意志の差異性によって、自分の本質の差異性を証明している
      • 自分の本質は意志を伴うが、本質は意志によってもたらされるものではない
      • 「私は欲する」という意欲が万人において等しければ、その区別ひいては根拠は存在しない
    • 欲するということは何者かを欲するということを意味し、このことは何者であるということを前提とする
    • 各人が有している一定の或る広さ・範囲の規定性の中で選択を行っており、各人における自由である
      • 選択された対象と選択者の本質の規定性は同一であるが、それは根拠や必然性に基づくものではなく偶発的なものである
  • 神学における神の意志
    • 神学は神の意志を「自然または必然的な意志と自由な意志とへ」区別した
      • 前者においては自分自身を欲し、後者においては創世された諸事物を欲した
    • 神的存在者=人間的存在者が最高の普遍性と抽象性とにおいて考え出したものに過ぎない
      • 神的意志は無名かつ隠れた人間的存在者、すなわち人間の真の意志である
    • 意志の自由の表象を産出するものは次のように区別できる
      • 無条件で代替することのできない、私の本質を汲みつくす必然的な動機または意志
      • 代替可能で私から切り離されることができ、必然的でない動機または意志
    • 人々が意志の自由を人間のすべての諸行為に対して区別なく広げるならば、必然的意志とそうでない意志の区別も同様に撤廃される
      • 自由な行為には偶発性が伴うことになる
  • 行為と自由
    • 不決断の状態における懐疑は自由であるが、決意は必然的である
      • このときの懐疑は私の本質および性格の規定性に対して超絶的であるが、決意は内在的である
    • 行為に対する決意は私の再発見され回復された真の本質である
      • 私が幸福あるいは不幸になる本質であろうとも
    • 私は実際に決心しかつ行為したように決心し行為するすることができる
      • 人間の行為は一面的・排他的・不変的に規定されてはいない
    • 人間は踏み越えることができない諸限界の内部において変化する
      • しかし、人間は自らの諸判断のもと自身を拘束し、不自由にさせる
    • 人間は自分を変化させ、自分を形成し、自分を発展させる
      • 人間に対して余りに狭い諸限界を設けるものは失敗する
      • 同様に諸限界を空想的なものに至るまで押しやるものも失敗する
    • 人間が変化しかつ発展する能力は人間の自由が及ぶところ以上には及ばず、人間の自由は人間の発展する能力が及ぶ以上には及ばない
      • 私の本質は乗り越えられることができない諸限界の内部に限定して基礎づけられている