「唯心論と唯物論」講読14

◆十二 デカルトおよびライプニッツの心理学と神学との統一

  • デカルトの思想
    • 「我思う、故に我あり」=「我は肉体なき我を思う、故に我は肉体なくして存在する」
      • 物質すなわち肉体的実体とほとんど結合しない神において成り立つ
    • 精神が人間の身体と結合されていることは本来精神の本質に属さない
      • 感性的諸心像は精神と身体との結合から由来するため、精神が感性的諸心像(=諸感覚・諸空想)によって不純にされている状態は精神の本質ではない
      • 神には「思惟なる実体」または「意志および悟性」が存在するだけであって、感覚・空想または想像力は存在しない
      • 心と肉体の結合という奇跡が引き起こされたが、同様に引き起こされない可能性もあり、神の本質と同一であるが神の無根拠な意志に過ぎない
    • 心と肉体の結合のみが人間の精神の被制限性および有限性の根拠である
      • この結合の解消のみが神的精神の無限性を基礎づけ形成する
  • 神の存在証明
    • 神は自身のなかに無限な完全性を含んでいる
      • われわれは或る完全なものを認識するが、それ以上に不完全なもの(=神に帰属しなもの)を認識している
      • われわれが感覚することができるのは、われわれのなかに或る完全性があるからである
      • 感覚においては受動的受苦的に振る舞う、すなわち或る物に依存するが故に神は感覚を持たず、ただ認識および意志のみが備わっている
    • 思惟する自然は物体的自然から区別されている
      • あらゆる合成において或る部分は他の部分に依存し、全体は諸部分に依存する
      • 何者かに依存するものは完全ではない
      • 神は思惟する自然と物体的自然、すなわち精神と肉体という2つの自然から合成されたものではない
      • 人間の精神の依存性・不完全性・被制限性の根源は身体以外の何物でもない
    • 最高度に完全な存在者としての神に関する観念のみならず無に関する観念(=いかなる完全性を持たない観念)をも持っている
      • わたしは神と無との中間、あるいは最高の存在者と非存在者または虚無的存在者との中間に投げ出されている
      • 私が最高の存在者によって創造されたものである限り、私のなかに錯覚および誤謬のいかなる根拠をも見出さない
      • それと同時に私自身が最高の存在者でない限り、私は私のなかに錯覚および誤謬の根拠を見出す
    • われわれのなかで存在者であるすべてのものは必然的に神に由来する
      • それ故にわれわれの諸概念または諸観念は真でなければならない
      • にも関わらず偽りなるものを含んでいる場合、それは無に起因する
      • そのような状況に陥るのはわれわれは何かが欠けている不完全な存在であるからである
  • デカルトの抱える矛盾
    • もし神がわれわれの精神と物質との結合の源泉であるならば、われわれの諸誤謬および諸錯覚の源泉でもあるはずである
    • デカルトの思想は神の誠実さを前提としているが、キリスト教神学における神は誠実ではなく、むしろ矛盾に充ちた存在である
      • 外に向けては一神であることを主張し、内に向けては三神であることを主張する
    • 神と一致するのは心と肉体が分離しているという点であって、結合しているという点ではない
      • 神の存在および本質は物質的存在および物質的本質の否認のなかに存立している
      • そのような存在である神から物質を導き出すのは矛盾した行為である
      • デカルトによる神の存在証明は存在論的証明にのみ留まる
    • 神的精神と人間的精神との間にはいかなる区別も存在しない
      • 存在と観念が合致しているような存在者においては、思惟と同一物である存在の対象化に過ぎない
      • 肉体から心が完全に分離することはできない