高坂原論26

タナトス心中
◇春の課題図書
帰省の際には、「課題図書」と称してそうした機会でも設けないと読まないであろう本を読むことにしている。序盤は割りと良いペースで読み進めて行くのだが、中盤あたりではすっかりだれて手に取る気すら起きず、ねぐらに戻る日取りが近づくにつれて「1冊は読み切らないと」と思い慌てて取り掛かる始末。なので、大抵数冊は持っていくものの、1冊読み終えるのがやっとという有様である。
秋学期に履修した近代哲学と現代思想の授業では実存主義をレポートのテーマとして選んだ。ヘーゲル哲学の大きな特徴は、従来は個人のレベルで論じられていた哲学を個人の集合体である社会のレベルへと転換させたことである。しかしながら、個人主体の軽視という反発から実存主義を、社会をいうシステムを認めつつも人間にとっては悪しきものであるという対立から社会主義を生み出すこととなった。実存主義社会主義の根底で共通しているのは「(人間)疎外」という観点である。ヘーゲルからマルクスへの橋渡しとなったフォイエルバッハなる哲学者を知り、その主著である「唯心論と唯物論」に強い関心を持ち、春の課題図書とした次第である。
結論から言うと、苦行であった。訳が古いせいか言い回しがまどろっこしい上、内容そのものも難解(前半は幾分楽なのだが中盤以降が……)。去年の春の課題図書だった「ドグラ・マグラ」とはまた異なるベクトルで理解が追いつかず、ただただ辛かった。一応、章ごとに自分なりの要約をしたものの、最後の方は気力尽きて絶賛放置プレイ中。気が向いたときにでも。
結局のところ、フォイエルバッハ先生は神の存在に懐疑的で、なおかつデカルト以降の伝統である唯心論と唯物論の対立を一蹴して新しい道を切り開こうとしたのだろう、多分(あやふやな理解なので確証は持てないが)。

◇ひねくれ者の唯心論
そもそも身体と精神とを分けるから面倒なことになるのであって、そこに二元論の限界があるのではないか。ただ、両者を切り離すことができたならば楽だとは思う。古代ギリシアの哲学者(たしかプラトン)が「魂は肉体という檻に閉じ込められている」という言葉を残している(と思った)が、その通りだと思う。
死という現象において、多くの人間は身体に起因する死(例えば病)は「諦め」によって受け入れている。他方、精神に起因する死(例えば厭世観や虚無感に基づく自殺)は大変反発される。ことあるごとに主張しているが、ボクはこの風潮が大いに気に食わない。というのも、死は不確実ながら不可避な現象に他ならず、その原因によって「良い/悪い」という価値判断を下せる代物でもない。加えて、ただ存在しているだけで価値があるとする単調な思想の生存至上主義はカルトのようにすら思える。人間の抱える不条理は根源的には2つ、生の不条理と死の不条理である。前者を受け入れれば後者を拒み、後者を受容すれば前者に反発を抱く。どうやらボクは後者のようだ。未だもってして、自らの意思が介在せずにボクという存在がこの世界に産み落とされたことに納得がいかない。
自らの意思に基づいて行動を起こすことが実存の第一歩なのであり、それが例え自殺であっても、人間として生きた証が残るのではないかと考えている。デカルトは方法的懐疑によって確固たる自分を証明した。自分を証明するためにはどうしたらよいか? 身体は機能を維持しようとする本能を有するが、理性によってそれを妨げることでそこに自らの存在を確認できるのではないか。もっとも、死後、正常に認知が作用するかという別の問題が孕んでいるのだが、ややもすれば、未練たらたらの魂となって現世をふよふよと漂うことも出来るかもしれない。などと思ってはいるが、結局は物欲と希死念慮の絶妙なバランスによって頽落したモノとして存在し続けている今日この頃なのだが。

◇さよなら、モラトリアム
2011年秋の哲学概論を履修したのをきっかけに、納得のいく生(あるいは死)の理論構築(またの名を屁理屈)・実践のために宗教学概論、ヨーロッパ近代哲学、現代思想1といった文学部の各学科で開講されている哲学・宗教系の科目を受講してきた。モラトリアムのフィナーレを飾る今学期は現代思想2、キリスト教文化、哲学入門と3科目もあって盛り沢山だ。文明系学科の開講科目に加えて、今学期の哲学入門は言語文芸系学科の開講科目である。具体的には『カラマーゾフの兄弟』を題材に人間が孕んでいる矛盾というものを考えるというものらしい。
ガイダンスで授業の大まかな内容を聞いた程度なのだが、「人間は聖母(マドンナ)の理想を抱きつつ悪行(ソドム)の理想へと堕落し、それでもなお聖母の理想を掴もうとするからこそ人間は恐ろしいのだ」というものらしい。
夏目漱石の『こころ』においても、先生が類似した内容のことを述べている。

悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。
平生はみんな善人なんです。
少なくともみんな普通の人間なんです。
それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。
だから油断ができないんです。

ボクは欲(身体的には肉体機能の維持、精神的には物質的欲求)によって生かされているといっても過言ではない。しかし、ボクの死に対する憧れもまた欲なのではないか。ボクは欲深く、それでいて死を希求しながらも心の奥底では死を恐れている浅ましくて醜い道化師だ。
太宰治もどきの文体になってしまったが、個人的に好きな作家である。不謹慎だが心中で最期を迎えたというのも魅力的に感じる。というのも、心中という行為は「死」よりも「共に行為する」という点に重きが置かれており、「二人で生きる」という選択肢を投げ捨ててまで自らを破滅へと追いやる姿は極めて儚い。我欲にまみれて死を選ぶならば、自殺よりも心中が最も望ましい。

普通の人間として振る舞うのにはもう疲れました。ボクの心のなかですくすくと育つ希死念慮を1つの人格と捉え、‘彼女’と心中することを夢見て、そろそろ眠りにつくことにします。