Give me the strength to be the truth

 テレビ各局では震災の映像を流しては「あの日から1年」ということを強調しているが、たった1年過ぎた、それだけに過ぎない。ましてや福島の地は完全な復興など不可能であり、選択的な復興であっても僕が死ぬまでに出来てるかすら怪しいし(少なくとも今のクソみたいな政権ではね)、とにかく長い年月が必要なのだ。それでも、節目の日に祈りをささげることの意義はあると思う。ただ、記憶の風化を危惧したところで、被災地と被災地以外では震災に対する温度差が激しいでしょうし、自ら経験したことの無い痛みを理解しようと試みることは出来ても、完全に分かち合えることなど出来もしない。故郷でこの災難に立ち向かおうとする人々を、自分のうすっぺらい安寧を得たいがために嘲笑う人々の多さに、この社会で生きることへの息苦しさを禁じ得ない。人間自体が悪であると決め付けるつもりも無いが、こういう時だからこそ、その人自身の心が人となりとなって表れ、ツイッターやブログが鏡のようにその人を映し出す。このブログはどんな風に僕を映し出しているのだろうか?

 震災以降、いろいろ考える時間も多くなったが、今の社会は歪な社会構造が硬直化しているがゆえに、弊害ばかり起こっているのではないか。政府・東電による原発事故(というかもはやテロといっても過言では無いが)を見ても、明らかだ。首謀者は責任を取っただろうか。「大きく役割を果たした」と自負する菅。カイワレのときもこいつが風評被害の発端であった。東電も社長は退職金をもらって隠居、会長は未だに続投、原発爆発でボーナス支給、足らないので税金で補填。いつから神様は東電社員になったのだろうか。そして、その尻拭いを県民が虐げられるという形でさせられる。政府がずさんな基準値を決定したがために、補償を受けれず、野菜を作らざるを得ない農家。力の弱い農家が糾弾されるのは、もはや政府と東電の巧妙な罠としか言いようが無い。原子力ムラを支えるために、買い叩かれる民の命。あの日、政治家は詐欺師になった。厳密に言えば、民主党マニフェスト詐欺で政権を略奪した日からだが。

 東大大学院の怪しい外国人教授が「地震予知など不可能」と言ったそうだ。教授ともあろうお方が、ずいぶんと大見得を切ったものだ。とある予備校講師が「知識を知れば知るほど、自分の分からないことが次々と出てくる。だから、自然と謙虚になる」と言っていた。雄大なる大自然を前に、‘悪魔の証明’を宣言した外国人教授は政府にも研究をやめるよう提言したとか。どのような経歴の人間なのか調べるつもりも無いが、何らかの思惑があって言っているのだろう。彼の提言は日本のことを考えてのなのか、それとも・・・

 全ての物事はパワーバランスで決まり、力を持った人間の思うままに事は進んでいくのだろう。そんな今の時代に必要なもの、それは革命。震災はありふれた日常を壊したが、それと同時に歪な社会構造とそれに巣食う虫けらどもを露わにした。壊されることと変わることは表裏一体である。この震災を新しく変わる機会と捉えて、虫けらどもを焼き尽くす、それが革命なのだ。