自分が無に帰してしまうのは、恐怖以外の何物でもない

 癌細胞は毎日作られているものの、癌化した細胞はアポトーシス―いわばプログラムされた自発的な死―によって全体の状態を保っているようで(人体ってすごい!)。であるならば、こうして死ぬことを望むことは至って自然なことではないかと結論付けようとしたところで、論理の破綻に気づいた。アポトーシスの論理だと、全体(研究室)のために個体(自分)が自発的に死を選択するわけだけど、そんな理由で望んでいるわけじゃない。確かに研究室が大きなストレスになってるけども、死を渇望する理由は「自分が幸せになるため」。歪んだ認知で考え事をしても、たいていまともな結論に至らないのは十分承知だし、周りから白い目で見られるのも承知の上で言うけども。
 「生きてたら良いことあるよ」なんて励ましてくれる人もいるけど、生きることは本来苦しいもの*1だと思うし、束の間の幸せが麻薬のように感覚を麻痺させているのだと思う。それにね、幸せというのは単なる状態変化に過ぎないし、‘生きている’状態なんて一時的なものでやがては無に帰るのだから、この存在そのものにすら意味など無いように思えてならない。歪んた認知による死生観に基づくと、死とは「苦しみの連鎖から解放される唯一の手段」なんじゃないのかなって。果敢に生きることに立ち向かうことは素晴らしいことだと思うし、それがあるべき姿の1つだと思うよ。けども、ただ漠然と生きているこの現状では、自分の存在に懐疑的にならざるを得ないし、むしろ目的を持って死ぬことの方が尊いことなのではないかなって。*2
 今日読んだ本にこんな一文がありました。「自分が無に帰してしまうのは、恐怖以外の何物ではない」と。twitterやブログでくだ巻いてないでさっさと骸になれば良いだけなんだけど、そうしない(出来ない)のは潜在的に恐怖を感じていることに他ならないわけで。手段(ストレス・快楽・精神崩壊などなど)を問わず、生と死を隔てる壁を乗り越えるために必要なポテンシャルを得て、その恐怖を乗り越えた時に一体何を感じ、何が起こるのだろうか。それは神のみぞ知ること。
 自分でも何を言いたいのかよく分からなくなってきたので今日はこの辺にするけど、所詮は精神がおかしくなった人間の戯言に過ぎないので、もちろんそこに意味など無いのです。

*1:「四苦八苦」とは仏教の考え方で、四苦は「生・老・病・死」の苦しみを指すらしい

*2:前述のとおり、かなり歪んだ認知によって導かれる結論なので、論理の破綻は重々承知してます