高坂あかなはかく語りき

 自分の進退を考える上で、「何も生み出さずに漠然と生きていて良いものか?」と思うことが多く、その度に「死ぬこと」に対してもはや憧れのようなものすら感じているのです。この手の話を然るべき人にすると(今日もしてきたのですが)、「それは極端だ」と反論されるのがいつものオチなのですが、何というか「生きること」至上主義みたいなものが渦巻いているこの世界は少し居心地が悪いなぁと思ってしまいます。避けては通れない「死」に対してあれこれ考えを巡らせることは、裏返せば「生」と向き合っていることですから、それさえも禁忌とするのはどうにも納得がいきません。
 読みかけの哲学の本に「行動の価値判断は幸福の追求の一点であり、幸福とはその人の哲学ほかならない」という一節がありました。死を渇望する自分について、改めて考えてみます。なぜ、それほどまでに望むのか? それは僕個人の哲学、すなわち死生観*1に直結しているわけで。でも、今日気が付いたのは、「死ぬこと」が目的ではなく単に手段に過ぎないということ。幸福を追求するために、複数の選択肢を吟味し、将来の展望が全く見通せない暗中模索な今の状況で最も幸福になれそうな選択肢が「死ぬこと」だった、それだけのことです。ただ、目的では無い以上、生きてることの方がより幸せになれそうな兆しがあれば、そのような願いはそっと取り下げるでしょう。この判断を合理的と見るか、現金・狡猾と見るかは人次第*2
 そのようなことを断片的に話すと真っ向から否定されますが、哲学なんてその人の生き様と切り離せない関係にあると僕は考えているので、何だか不可侵条約を一方的に破られた気がしてあまり良い気はしません。どっちにしろ、自ら死ぬ勇気を振り絞れないということは自分が一番よく知っていますから、せめて「やがて来る死」に対して思いを馳せることぐらいはさせてもらいたいものです。

―5月15日のツイート
 4月から死神見習いとして働き始めたものの、心が優しすぎてノルマを達成できなくて上司から叱責されるものの、故郷に残した両親と妹へ仕送りを送るために今日も鎌を携えて仕事へ出掛けるような女の子の力になりたいと思うのは、ダメ人間に残された最後の良心なんだろうね。

訳の分からない妄想*3で終わる。

*1:「漠然と生きているくらいなら、目的を持って死ぬ方が崇高なのではないか?」

*2:個人的にはとても合理的だと思うのですが

*3:エゴグラムなんかだとFC(自由奔放な子供)が低く出るのですが、ご覧のとおり結構な妄想さん(*・ω・*)