世界は不条理と欺瞞と優しさで出来ている

 自分がこんな状況に置かれていてもあまり口うるさく言わずに見守ってくれる両親や、こんなひねくれ物の相談に乗ってくれる親戚の伯父さん、理解を示してくれる教授、自分の研究室に移るよう提案してくれる他の先生(しかも2人も)。あー、わたし、愛されてるぅ!*1 こほん、話を戻します。
 同期が似たような状況になって2週間研究室に行けなくなった時期があったらしく、その時彼は親に「お金払ってるのに何で行かないの?」と言われたとか。違う家庭のことなので何とも言えないですが・・・ 「いらぬ苦労を掛けてばっかりで親不孝者だよなぁ」と面と向かっては言えないものの、ささやかな罪悪感のようなものは感じています。

 不条理と欺瞞ばかりに目が行きがちだけど、ただ生きようと思えばそれほど苦労しないこの世の中。適当にアルバイトでもして、毎日を気ままに過ごすことも出来るでしょう。そういった意味で、世界は優しくもあるとふと思いました。それは同時に厳しいことでもあります。「怠けて楽できるけど、それに伴う責任は自分で負ってね☆」という風に。その優しさに甘えることは悪いことではないし、それが必要な時期もあるとは思うけど、果たしてそれが人生の中で重要な意義を持つかというと首を傾げざるを得ません。「学生」という身分によってモラトリアムの大義名分を得ていながら、発達課題である「同一性の獲得」を成しえないこの体たらく。それにもかかわらず、恥ずかしいとすら思わずのうのうと生きてる(生きられる)のは、やはり世界が優しいからだと思うのです。

 ちゃんとやれてる他人を見ては(それぞれに悩みや葛藤を抱えているとは思いますが)、「どうして自分だけこんな目に・・・」とこの世界の不条理を恨めしく思ったりもしますが・・・*2 「しがらみから離れて休むこと」は欺瞞に満ちた優しさのようなもので、ハイリスク・ハイリターンな選択なように思えてなりません。一方、「しがらみの中で悶々と過ごすこと」はローリスク・ローリターンな選択と言えます。そういった選択の基準となるのが同一性と言うものなのでしょう。「卵が先か、鶏が先か?」の議論ではないですが、「弱いから同一性を確立できないのか、同一性を確立できないから弱いのか?」という議論に収束する今の状況は、上質な劣等感を僕に与えてくれます。

 いずれにせよ、秋には何らかの決断を下さなければという思いが、却って「秋にはどうにかなるだろう」という楽観的な思考に至って精神安定に作用しているみたいです。夏が終わる頃になって、慌てふためくことになりそうですが・・・ 同一性の確立、すわなち「人生」の難問を解こうとしているわけですが、ひょっとしたら「人生」なんてものに意味など無いのかもしれませんね。

*1:かのこん2巻より。これが言いたかっただけ。ちずるさんの声で勝手に再生されます(´・ω・`)

*2:前回も書きましたが、最終的には自分の弱さに帰結するのでしょう。