鏡の中の少女に、僕は恋をした-言葉の指向性-

 僕もTwitterなんぞをやっているけども、基本的にツイートなんて結局は‘独り言’に過ぎないわけで、指向性を持たない言葉たちでタイムラインが埋め尽くされる*1のが何というか不気味に感じてしまうのです。もっとも、僕も下らないツイートで人様のタイムラインにひょっこりおじゃましたりしているので、そんなことを言えた義理じゃないのですが。じゃあ、言葉に指向性を持たせれば良いかといえば、今度は別の問題を孕んでくる。
 指向性を持った言葉でも、想定した受け手にそれを受け取ってもらえなければ、結局は独り言になってしまう。何が言いたいかといえば、友人にリツイートしたものの僕はスルーされて他の人にはちゃんと返信してる様を見て、「何だい、何だい!」とぷんすか怒ってるという話。「僕なんて、そういう扱いなのだ」と自嘲的になりつつ、果たして言葉に指向性を持たせることは単なる独りよがりであって、他人からしてみれば「またあいつから言葉が届いたよ。あんまり好きじゃないんだよね・・・*2」と思われているのかも。この時、注意しなければならないのは指向性を持たせるということは何らかの打算や期待を含んでいるということである。それが裏切られた時に、指向性そのものを否定するのは少し違うと感じた。
 確かに「沈黙する」ことも1つの方法だけど、何も言葉そのものを否定する必要はない。問題なのは指向性の向きなんだと思う。裏切られないためにはどうすればよいか? 指向性を‘外の世界’から‘内の世界’に向ければ良い。コトノハ心中を夢見てから、「言葉とは自分の鏡像である」というのが僕の言葉に対する認識。言葉は自分の思想、感情、意志を具現化する道具であって、他者との意思疎通は付随的な役割だと思う。しかれば、鏡とにらめっこしながら思考を組み立てていけばいい。鏡の中の自分は、真摯に向き合ってくれる。外の世界とは違ってね。

 ここからは妄想の話になって申し訳ないので、先に謝っておく。鏡の中の自分は一体どんな姿をしているのだろうか。鏡の前で僕が言葉によって思考を組み立てていると、鏡の中に1人の少女が浮かび上がってくる*3。少女は僕の言葉を反芻しながら、時折「どうして?」とか「私は違うと思う。」と僕に話しかける。それを受けて僕がまたああでもない、こうでもないと思考を組み直し、彼女が納得したり、僕が「考える時間をくれない?」と言うと鏡から彼女が消えるようなイメージ*4
 自分自身も、自分の鏡像である少女*5もまた不完全な思考の持ち主なのである。鏡を通じた逢引によって本当の自分を確立していくために、僕らは思考を組み立てていく。鏡越しの彼女の悩む姿が愛おしい。そうして彼女の思考が完成した時こそ、僕が死ぬ時。だから、その時まで僕のできる限りのことを彼女にしてあげたいと思うのです。

 コン、コン。鏡の中の少女が鏡をノックする。
少女:「ねぇ、言いたいことは何となくわかったけど、やってて楽しい?」
僕:「まぁね。それなりに楽しいよ。」
彼女が呆れた顔をしたので、僕は一言付け加えることにした。「確かに、傍から見ればちょっと理解できないかもね、こんな妄想は*6。」と。

*1:僕がフォローしてる人数が少ないのも原因なのですが。

*2:魔女の宅急便」の名シーン、にしんのパイを受け取り拒否する場面より。

*3:あくまで個人の妄想です。

*4:くどいようですが、酷い妄想に冒されているだけです。

*5:可愛らしい女の子が見えるんだったら、そんなもん鏡をじゃなくて幻覚を見てるんだろうという指摘もあるが。

*6:書いてて思ったけど、pixivでやった方が良かったのではないかと、少し後悔。