その先にあるもの

 毎晩、寝る前に布団を被りながら「どうか、永久の眠りに就けますように」と願い事をしている。そして、目を覚ますたびに自分が実在していることに幻滅するのだ。

 実家に戻ってきたは良いが、誰の干渉を受けることない一人暮らしとは勝手が違って辟易とする。この前、学費納入の封筒が届いた。大学も余計なことをしてくれたものだ。親から「どうするんだ?」と聞かれても、僕はだんまりを決め込む。今夜こそ願いが聞き届けられるかもしれないのだから、決断を下すなんて無粋なことはしたくない。

 僕は幸せになりたい。最近思うのは、生きるということには常に悩みが付きまとう。葛藤の中に閉じ込められるのは辛いこと。根源的な幸せとは葛藤からの解放であり、生との決別なのではないかとかねてから考えていた。
 すべての可能性によって生という相が成り立っているのならば、死という相はその可能性を擲つことで成立するのであろう。前者を善きものとして、後者を悪しきものとする一般的な価値観(‘生存至上主義’と表現する)には、どこか気味の悪さのようなものを感じてしまう。自分という存在の創生に際しては自分の意志など関係ない。ただ一方的にこの世界に産み落とされるのだ。果たして、そこに存在意義や存在理由はあるのだろうか。

 とは言うものの、自分が無に帰してしまうことには、渇望しているのにも関わらず一抹の恐怖を感じてしまう。自己否定を重ねていけばニヒリズムの境地へ到達できるだろうか。布団にくるまりながらそんなことを考えていると、不意に胸を抉られているような感覚を覚える。このまま踏み躙り、切り刻まれてしまえば一線を越えるだけの揚力を手に入れられるのだろうか。でもね、結局は理性の安全装置が作動してしまう。現実と立ち向かうにも、空を飛ぶのも、莫大なエネルギーが必要なのだ。

 今置かれている状況は、さながら鳥かごの中の鳥と言ったところ。狭い鳥かごの中で窮屈な思いをしてるものの、お世辞にも美味しいとは言えないが最低限の餌は用意されている。鳥かごの扉は開けっ放しになっているから、逃げようと思えば逃げられる。鳥かごの外の世界を僕は知らない。悠々と羽ばたくことができるかもしれないが、自分よりも大きな鳥に脅かされるかもしれないし、餌を得ることができずに飢え死にしてしまうかもしれない。どうしてもリスクを考えてしまって、鳥かごの中に留まるのが一番賢いと自分で結論づけたはずなのに。日を追うごとにそれは誤りなのではないかという気持ちが強くなっていく。

 薬(お世話になることはめったにないが)も微睡もまやかしに過ぎない。結局は問題を見て見ぬふりしてるだけ。道は2つ、生きるか死ぬかしかないのだ。

 読みかけのキルケゴールの本によると、彼は「実在への三段階」を提唱したようだ。人間の真の生き方とは、「人間を超越した絶対者の力によって幸せを与えてもらう他なく、救済は信仰の決定的飛躍にのみ得られると確信する。」であると。彼はキリスト教に救済を求めたが、最後までキリスト教を信じることが出来なかった。
 僕の場合はどうか。「自分がそのために生き、そのために死ねる真理」を探し求めた結果、死こそが救済であるとささやかに確信しつつある。打ちひしがれて死へと漂流するよりも、一握りの希望を胸に死へ飛び込むならば、きっと幸せなことだろう。淀んだこの世界を飛び出したその先に広がるのは、どんな景色だろうか。僕はまだ見ぬその景色に胸を焦がしている。